自證院|新宿区富久町にある天台宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

鎮護山自證院|ふし寺・瘤寺

自證院の概要

天台宗寺院の自證院は、鎮護山圓融寺と号します。自證院の創建年代等は不詳ながら、日蓮宗法常寺と号していたといいます。尾張藩主徳川光友の夫人千代姫の母(自證院殿光山暁桂大姉)が当寺に葬送されたことから、寛永17年(1640)本理山自証寺と改めて日須上人が開山、寛文5年(1655)の日蓮宗不受不施派の禁令により、天台宗に改め、輪王寺の院室と成ったといいます。江戸時代には寺領200石の御朱印状を拝領していた他、伽藍は節目の多い材木を使用していたことから、ふし寺・瘤寺と呼ばれていました。

自證院
自證院の概要
山号 鎮護山
院号 自證院
寺号 圓融寺
住所 新宿区富久町4-5
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



自證院の縁起

自證院の創建年代等は不詳ながら、日蓮宗法常寺と号していたといいます。尾張藩主徳川光友の夫人千代姫の母(自證院殿光山暁桂大姉)が当寺に葬送されたことから、寛永17年(1640)本理山自証寺と改めて日須上人が開山、寛文5年(1655)の日蓮宗不受不施派の禁令により、天台宗に改め、輪王寺の院室と成ったといいます。江戸時代には寺領200石の御朱印状を拝領していた他、伽藍は節目の多い材木を使用していたことから、ふし寺・瘤寺と呼ばれていました。

「牛込區史」による自證院の縁起

鎮護山圓融寺自證院 東叡山
起立の年代は不詳だが、古くは牛込榎町に在り、法常寺と稱し、日蓮宗不受不施派に属した。寛永十七年八月自證院殿(尾州徳川光友の室千代姫君の母)が當寺へ葬送されてから寺號を改稱し、大猷院殿の命によって富久町に移轉したが、寛文五年不受不施派の禁斷となつた際、天臺に改宗し、その頃から輪王寺の院室と成つた。開山松樹院日順、慶安三年八月十二日寂。中興大僧都信祐、延寳元年二月十五日寂。開基自證院殿光山暁桂大姉、寛永十七年八月廿八日寂。舊境内一萬六百坪餘、内門前町屋三百坪餘、朱印寺領二百石、區内稀なる巨刹である。
寺中圓乗院
もと一乗坊と唱へたが、本院改宗後改稱した。
同上妙光院
もと常智院と稱した。
同上真珠院
もと常照院と稱した。(「牛込區史より)

新宿区の文化財史跡ガイドブックによる自證院の縁起

自証院は、寛永17年(1640)、尾張藩主徳川光友の夫人千代姫の母、自証院を供養するために創建された寺である。日須上人を開山とし、最初は日蓮宗で本理山自証寺といったが、元文年間(1736-41)に天台宗に改宗された。古くは桜の名所であったという。また寛政12年(1800)、尾張藩の寄進により建立された堂塔の用材が良否を問わず槍の節目が多いものを用いたため「ふし寺」「瘤寺」とも呼ばれた。
明治時代末期、この付近に住んでいた文学者小泉八雲が自証院の風致を好んだが、杉の木を切り倒す音を聞いて、杉の木がかわいそうでいたたまれなくなって転居した話は有名である。
境内には、弘安6年(1283)の銘のある区内最古の阿弥陀三尊種子板碑などがある。(新宿区の文化財史跡ガイドブックより)


自證院所蔵の文化財

  • 自証院の阿弥陀三種子板碑(新宿区指定有形文化財)

自証院の阿弥陀三種子板碑

弘安6年(1283)の紀年銘を有する区内最古の板碑であり、その大きさも都内で屈指のものである。
山形の下に二条線が切りこまれ、天蓋の下に阿弥陀・観音・勢至の三尊の種子がそれぞれ蓮台を配して刻まれ、その下に紀年銘が記されている。天蓋・種子ともに古様を示し、板碑全体が鎌倉中期の特徴を持っている。
当時市谷付近に有力武将の居住を物語るものとして、また浄土信仰の普及を示すものとして貴重である。
なお三尊種子板碑両脇の「栄寿院妙山准心大姉」「元禄八乙寅年六月十九日」の文字は江戸時代の追刻である。(新宿区教育委員会掲示より)


自證院の周辺図