馬橋稲荷神社|杉並区阿佐谷南の神社

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馬橋稲荷神社|鎌倉時代末期の創建

馬橋稲荷神社の概要

馬橋稲荷神社は、杉並区阿佐谷南にある稲荷神社です。馬橋稲荷神社の創建年代は不詳ながら、鎌倉時代末期の創建といいます。明治40年、村内の御嶽神社・白山神社・天神社・水神社を相殿として合祀、昭和2年村社に列格、昭和40年馬橋稲荷神社と改称したといいます。

馬橋稲荷神社
馬橋稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 宇迦之御魂神、太麻等能豆神
相殿 白山神社、水神社、天神社
境内社 水神社・厳嶋神社合殿
祭日 例祭日2月初午
住所 杉並区阿佐谷南2-4-4
備考 -



馬橋稲荷神社の由緒

馬橋稲荷神社の創建年代は不詳ながら、鎌倉時代末期の創建といいます。明治40年、村内の御嶽神社・白山神社・天神社・水神社を相殿として合祀、昭和2年村社に列格、昭和40年馬橋稲荷神社と改称したといいます。

杉並区教育委員会掲示による馬橋稲荷神社の由緒

この神社は、旧馬橋村の鎮守で、祭神は宇迦之御魂神と大麻等能豆神です。
神社の由緒書によると、鎌倉末期の創立といわれます。
当社近くの墓地に「文安四年丁卯閑二月五日」と刻んだ板碑が現存することから、室町期にはこの地域に人々が住んでいたことがわかります。
また、江戸初期延宝2年(1674)『武州多摩郡馬橋村寅御縄打帳』の中に「いなり明神社内福仙寺」の記があることから、すでに稲荷社が祀られていたことがうかがわれます。
天保2年(1831)、拝殿改築に際して氏子53人が拠金して、京都白川神祇伯家御役所(神社を司どる役所)に上申し、翌年「正一位足穂稲荷大明神」の御神号を拝受したということです。
明治40年、本殿改築後、村内の御嶽神社・白山神社・天神社・水神社を相殿として合祀しました。
昭和40年10月住居標示の改正に伴ない、馬橋の地名を保つため神社名を「馬橋稲荷神社」と改めました。
現在の拝殿は昭和13年の改築ですが、本殿前の朱塗りの随神門は、昭和50年鎮座700年記念事業の建立で、左右に随神像を祀り、中央天井に都内最大といわれる開運の大鈴(直径75㎝)がつるされています。当社の神輿は大正11年の東京博覧会に出品されたもので高さ2.5m、台幅1m重さ1.5tの白木造りの大神輿で区内でも一、二の大きさといわれています。
正面の石造大鳥居は、高さ8mで昇龍・降龍が刻されてあり、東京三鳥居の一つといわれています。また、江戸末期から力くらべに使われたという力石や、多くの絵馬・奉納額も保存されています。
初午祭は、餅つき唄を歌いながらついた餅を神前に供える神事で、毎年たいへん賑わっています。(杉並区教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による馬橋稲荷神社の由緒

(馬橋村)
稲荷社
除地、一畝十二歩、小名西ノ久保にあり。村の鎮守なり。本社二間四方、拝殿四間に二間、未申の方に向。前に鳥居をたつ。鎮座の年代は詳ならず。
御嶽社
除地、四段二十五歩、小名後原にあり、小祠にて上屋もわづかに六尺四方、鳥居をたつ。
天満宮
除地、四畝二十四歩、前の並にあり、小祠平地にして雑木生茂れり、例祭九月二十五日、右の三社いづれも村内福泉寺の持なり。 (新編武蔵風土記稿より)

「杉並の神社」による馬橋稲荷神社の由緒

馬橋稲荷神社(阿佐谷南二丁目四番四号)
当社は 『新編武蔵風土記稿』多摩郡馬橋村の条に稲荷社とあって「除地、一畝十二歩、小名西ノ久保にあり、村の鎮守なり、本社二間四方、拝殿四間に二間、未申の方に向、前に鳥居をたつ」とあり、また創建は「鎮座の年代は詳ならず」とあるように江戸時代の末期でも詳かでなかった。しかし、今日の馬橋稲荷神社の由緒書によると、鎌倉末期の創建という。大谷時雄氏の墓地(共同墓地、阿佐ヶ谷南二五番二三号)に文安四(1447)年丁卯閏二月五日と刻んだ板碑が現存するから、室町期には馬橋の地域に居住者の存在が認められる。現存する延宝二(1874)年四月『武州多摩郡馬橋村寅御縄打帳』 によると、「馬橋村除地、七間六間、宮地壱畝拾弐歩、いなり明神社内福仙寺」とあるから、延宝二年以前から福仙寺(福泉寺)持であったことがわかる。今の境内地は約壱千坪であるが、明治十二年の『神社明細帳』東京都公文書館蔵には当社について、
馬橋村 無格社 稲荷神社
一、祭神 受持神(保食神)
一、由緒 不詳
一、社殿間数、本殿間口三尺奥行三尺、拝殿間口三間奥行三間
一、境内坪数 二百五十三坪 官有地
一、境内所有地 林五畝六歩馬橋村字内手
とみえる。また明治維新時の神社奉仕の様子を明治二年十一月「神社書上帳」(大谷晴雄氏蔵)でうかがうと、奉仕する所は是迄定まらず、隣村修験あるいは寺院等法楽ならびに湯花神楽等を奉り候所、御一新には、寺院修験は相離れ、角筈村熊野十二社の神職渡辺主計を以って幣を奉ること相頼度き儀に御座候。
とある。なお、当稲荷神社の正式な勧請は天保二(一八三一)年十二月上旬『当村鎮守稲荷官金勧化連名帳』馬橋村という記録に、「当時の住民大谷左六外五十三名連名を以て官金(金七両二分)あり、是を以て京都に使者を向け、白川神祇伯家御役所に上申し、御神体及神号の宣下を乞ひし処、天保三年辰正月三十日、正一位足穂稲荷大明神の御神号を給はり御勧遷の許可あり」
(永山兵蔵「稲荷神社由緒に就いて」『稲荷社報』第二号)と示されている。
つぎに、今日の馬橋稲荷神社は、左のごとくである。
一、祭神 宇迦之御魂神(稲荷神社)・太麻等能豆神(卸嶽神社)
二、相殿 白山神社・水神社・天神社
三、境内末社(一社) 水神社・厳嶋神社(以上合殿)
四、斎霊殿祭神戦没者 三五五柱
五、境内地 約一、〇〇〇坪
六、主要建物 本殿一・五坪、拝殿約二六坪、神楽殿二〇坪、随神門四坪、斎霊殿五坪、末社三坪、神輿庫五坪、社務所六五坪
七、例祭日 九月十二日
八、由緒 創立年月日 不詳
鎌倉末期の創建とも言い伝えられ、天保三年正月、正一位足穂稲荷大明神の神号を給わる。天保十一(一八四〇)年拝殿改築、明治四十年本殿改築、同年十一月馬橋村内の無格社御嶽神社(高円寺北四丁目四、五、七番地)、白山神社(御嶽神社末社)、天神社(高円寺北三丁目七、九番の各一部)、水神社(高円寺北三丁目五番八号)の四社を同村中央の地、稲荷神社に合祀する。当時は五社神社と呼ばれていたという。なお、延宝二年の縄打帳には「御嶽権現宮地四反弐拾五歩、天神宮宮地四畝弐拾四歩」とあるが、水神社の宮地はみえない。
その後、昭和二年十月村社に列し、同十三年十一月茅葺屋根の旧社殿を総檜入母屋流造りの現在の社殿に完成、同年九月木造平屋建六十五坪の社務所を新築する。同二十五年三月境内に氏子中の戦没者ならびに神社関係物故者を把る斎霊殿を新築、以来春秋二回の慰霊祭が行われている。同四十年十月一日住居表示の改正にともない、馬橋の地名がなくなるので神社名を馬橋稲荷神社と改称する。同時に神奈川県真鶴岬産の本小松石(重量六トン)地上三メートルの自然石に社名を刻み、社号碑を参道入口に建てる。
昭和五十年三月鎮座七百年記念事業として随神門を完成する。朱塗り流れ造り約四坪、右に豊磐間戸命、左に奇磐間戸命、戸守りの神像を肥り、中央天井に開運の都内最大の鈴(直径七五糎)を釣す。正月・初午・例大祭には参拝者が自由に鳴すことができる。同五十四年九月社殿の改装なる。その際に飾り金具を配した。この金具の取付けは社殿造営に計画されながら戦争のため実現されなかった。(「杉並の神社」より)


馬橋稲荷神社の周辺図