田端神社|杉並区荻窪の神社

猫の足あとによる東京都寺社案内

田端神社|応永年間に帰農した武士が勧請

田端神社の概要

田端神社は、杉並区荻窪にある神社です。田端神社は、足利持氏と上杉禅秀とが戦った時、品川左京の家臣良影という者が応永年間(1394〜1427)当地に土着し、京都の北野神社の分霊を祀って天満宮として創建したといいます。明治42年田端村にあった小名関口の天祖神社(神明社)、稲荷社、小名高野ヶ谷戸の子ノ権現社、小名日性寺の山神社を合祀、田端神社と改称したといいます。

田端神社
田端神社の概要
社号 田端神社
祭神 菅原道真公・天照皇太神・豊受比売神・大国主命・大山祇神
相殿 -
境内社 稲荷神社、他1社
祭日 例祭日9月13日
住所 杉並区荻窪1-56-10
備考 田端村小名田端の鎮守



田端神社の由緒

田端神社は、足利持氏と上杉禅秀とが戦った時、品川左京の家臣良影という者が応永年間(1394〜1427)当地に土着し、京都の北野神社の分霊を祀って天満宮として創建したといいます。明治42年田端村にあった小名関口の天祖神社(神明社)、稲荷社、小名高野ヶ谷戸の子ノ権現社、小名日性寺の山神社を合祀、田端神社と改称したといいます。

杉並区教育委員会掲示による田端神社の由緒

田端神社
当社は菅原道真公を祭神とした旧田端村の鎮守で、かつては北野神社(天満宮)とも、あるいは社の場所が田の端にあったことから田端天神とも呼ばれ、村の産土神として崇められるようになったといわれています。
創建は応永年間(一三九四〜一四二七)といわれ、社伝によれば足利持氏と上杉禅秀とが戦った時、品川左京の家臣良影という者がこの地に土着し、京都の北野神社の分霊を祀ったことにはじまると伝えられています。また、村名も社名に由来するといわれていることから、当社が古い社に属することがうかがわれます。
明治四十二年、当社は村内に鎮座してあった天祖神社・稲荷社・子ノ権現社・山神社を合祀しました。これにともなって各社の祭神が当社に祀られ、現在の祭神は菅原道真公・天照皇太神・豊受比売神・大国主命・大山祇神の五柱です。なお、田端神社の社号は明治四十四年に改めたものです。
当社祭神、大国主命は足痛・腰痛に霊験有りとして知られ、社蔵の木槌のご利益への返礼として奉納された小槌が多数残っています。
文化財としては延宝五年(一六七七)銘・享保三年(一七一八)銘の庚申塚、江戸時代に造られたといわれる木造鳥居、江戸末期から大正期にかけて奉納された力石などがあります。(杉並区教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による田端神社の由緒

(田端村)成田東
神明社
除地、四畝二十四歩、小名関口にあり、此所の鎮守なり、本社は二尺五寸に四尺、覆屋二間に三間東向、前に鳥居をたつ、例祭は九月十九日、村内天桂寺のもちなり。
神明社
除地、一畝、是も関口にあり、わづかなる祠にて覆屋あり、南向、前に鳥居をたつ、村民の持なり。
天満宮
除地、六畝、十八歩、小名田端にあり、此所の鎮守なり、本社三尺四方にて、一間半に二間の上屋を設、前に鳥居をたつ、例祭九月廿五日、天桂寺の持なり。
子権現社
除地、三畝十歩、小名高野ヶ谷戸の鎮守なり、本社は二尺五寸に四尺、上屋一間半に二間南向、前に鳥居をたつ、例祭九月十五日、是も天桂寺の持なり。
山神社
除地、六畝、小名日性寺にあり、続なる社神軀は厨子に入、白狐に乗たる木像にて長五寸餘、覆屋は二間に二間二尺、鳥居あり、例祭九月の内にて定れる日なし、村内金福寺の持なり。(新編武蔵風土記稿より)

「杉並の神社」による田端神社の由緒

当社は「新編武蔵風土記稿」多摩郡田端村の条に天満宮とあって「除地、六畝十八歩、小名田端にあり、此所の鎮守なり、本社三尺四方にて一間半に二間の上屋を設、前に鳥居をたつ、例祭九月十五日、天桂寺の持なり」とあるが、境内地からかって古墳時代の土師器が発見され、その後さらに、発掘調査がなされ、縄文時代中期(約四五〇〇年前)の住居址と多数の縄文土器が出土している。当社が古い社に属することが知られる。創建の由来については応永年中(一三九四〜一四二七)という。当社はもと北野神社(天満宮)といった。明治四十年二月に村内に鎮座する天祖神社(現成田東三丁目二四番地※誤記成田東四丁目二四番地)・子ノ神社(荻窪三丁目一九番地)・稲荷神社(成田西二丁目二一番地)・山神社(荻窪二丁目四番地)の四社を北野神社(当社)に合祀、同四十四年二月四日に社号を現在の田端神社と改称した。明治十二年の「神社明細帳」には当社について、
田端村字本村 無格社 北野神社
一、祭神 菅原道真公
一、由緒 不詳
一、社殿間数 本殿間口一間半奥行一間半
一、境内坪数 百六十八坪 官有地
一、氏子戸数 六十四戸
とある。なお、同帳に天祖神社は「祭神大日孁命(天照大神)、由緒不詳、社殿間数本殿間口二尺奥行二尺、拝殿間口三間奥行三間、境内坪数百八坪」とある。子ノ神社は「祭神大国主命、由緒不詳、社殿間数本殿間口一間半奥行二間、境内坪数百三十五坪」とある。稲荷神社は「祭神受持神、由緒不詳、社殿間数本殿間口二尺奥行二尺、拝殿間口三間奥行三間、境内坪数数百八坪」とある。山神社は「祭神大山津見神、由緒不詳、社殿間数本殿間口一間半奥行一間、境内坪数九十一坪」とある。いうまでもなく、天祖神社は神明社、子の神社は子権現社、稲荷神社は稲荷社と呼ばれ、各小字地の鎮守であった(新編武蔵風土記稿)。今日の田端神社は左のごとくである。
一、祭神 天照皇太神・豊受比売神・大国主命・菅原道真公・大山咋命
二、境内末社(二社)御嶽神社(一殿)、稲荷神社(一殿)
三、境内地 約九五〇坪
四、主要建物 本殿一坪、幣殿五坪、拝殿一〇・五坪、神楽殿七・五坪、社務所四〇坪
五、例祭日 九月十三日
六、由緒
社伝によると、北野神社の創建は応永年中、足利持氏と上杉禅秀とが戦った時、品川左京の家臣良影という者が土着したのが発端で、良影は道真を信仰し、北野神社の分霊を高所に祀ったところ、後いつしかその社が田の端にあることによって、田端神社と呼ばれ村の産土神と崇められるようになったという。なお、この北野神社は天保五(一八三四)年まで田端村の天桂寺が別当職を、以後明治維新まで下荻窪村の中道寺が別当職を勤めていた。
昭和十三年五月に村社に列格し、現社殿(神明造)は明治四十一年に新築、幣殿と本殿は鉄骨で昭和四十年に改築した。参道入口の石鳥居(高さ一丈四尺六寸)は明治四十三年三月に設けたが、木造鳥居(高さ一丈)は旧稲荷社より移築したもので、明治以前に造られたといわれている。石灯籠(約三・五メートル一対)は昭和十三年一月氏子より奉納、末社稲荷神社は元近衛邸にあったものを戦後当社に納めた。また御嶽神社は御嶽講中のものである。なお当社は神体五柱の外に石の神体(一体)をも合せて奉祭している。
子の権現社は良影の子良枝が創建したといわれている。かって甚しく足痛に苦しめられ、ある夜、信仰せる出雲大神が夢の神託に、「汝わが槌をもって痛む足を撫れば速やかに癒ゆべし」といわれ、直ちに使を出雲大社に向けて槌を持ち帰らしめ、痛む足を槌で撫でたところ全癒した。よって庭内に小祠を建て、大国主命を祭神としたのが子の権現社であるという。以来、近郷で腰痛・足痛の神として崇められ、現に小槌が数多く納められている。
七、その他
(1)庚申塔二基 稲荷社の脇に奉安している延宝五(一六七七)年、享保三(一七一八)年銘二基の庚申塔はかって境内の隣地住宅地にあったが、宅地造成によって当社に遷移したものである。
(2)参道桜並木 戦前は八重桜が三十本あったが、現在は一重桜に植替えた。
(3)忠魂碑 日露戦争の忠魂碑で、乃木大将の自筆を刻したものである。
(4)力石 江戸時代の末期から明治・大正にかけての奉納、現在十一個を所蔵している。(「杉並の神社」より)


田端神社所蔵の文化財

  • 延宝五年(一六七七)銘・享保三年(一七一八)銘の庚申塚
  • 木造鳥居
  • 力石ならびに板絵着色力石持上図一面(杉並区指定文化財)

力石ならびに板絵着色力石持上図一面

力石は、若者たちが日常の遊びや、神社の祭礼の時などに担いでその力を競い合い、力試しをするために使った石です。
田端神社の力石は、二十八貫目(約一〇五kg)から五十貫目(約二〇六kg)と刻まれている十一個があり、大正六年に奉納された九個は一部朱が塗られていた痕跡が残っています。
板絵着色力石持上図は、中型の絵馬で、社殿、鳥居及び三個の力石と、力石を持上げる若者の様子が描かれています。全国的にも珍しい画題で、力石を担ぎ上げる方法の一つがわかる貴重な資料です。(杉並区教育委員会掲示より)

田端神社の周辺図