大宮八幡宮|杉並区大宮の神社

猫の足あとによる東京都寺社案内

大宮八幡宮|源頼義が奥州征伐凱旋の際に勧請、旧府社

大宮八幡宮の概要

大宮八幡宮は、杉並区大宮にある八幡宮です。大宮八幡宮は、康平6(1063)年、源頼義凱旋の際、記念の地として、岩清水八幡宮を勧請し創建されたといわれます。当地からは方形周溝墓や、延文2(1357)年・貞治2(1363)年などの板碑が発見されている他、熊野那智神社に保存されている「武蔵国願文」も貞治元年(1362)のものであることから、創建年代の信憑性を裏付けます。江戸時代には、別当寺であった大宮寺(明治期に廃寺)と併せて30石(15石ずつ配分)を拝領しています。明治5年に郷社、明治18年に府社に昇格、また戦後には別表神社に定められています。

大宮八幡宮
大宮八幡宮の概要
社号 大宮八幡宮
祭神 応神天王、仲哀天王、神功皇后
相殿 -
境内社 三崎神社・天満宮・東照宮・山神社、白山神社・稲荷神社・若宮八幡神社
祭日 例祭日9月15日
住所 杉並区大宮2-3-1
備考 結婚式場清涼殿・大宮幼稚園併設



大宮八幡宮の由緒

大宮八幡宮は、康平6(1063)年、源頼義凱旋の際、記念の地として、岩清水八幡宮を勧請し創建されたといわれます。当地からは方形周溝墓や、延文2(1357)年・貞治2(1363)年などの板碑が発見されている他、熊野那智神社に保存されている「武蔵国願文」も貞治元年(1362)のものであることから、創建年代の信憑性を裏付けます。江戸時代には、別当寺であった大宮寺(明治期に廃寺)と併せて30石(15石ずつ配分)を拝領しています。明治5年に郷社、明治18年に府社に昇格、また戦後には別表神社に定められています。

「杉並の神社」による大宮八幡宮の由緒

大宮八幡宮については「新編武蔵風土記稿」多摩郡和田村の条に八幡社とあって「除地、六万坪、小名大宮にあり、社領御朱印三十石、天正19(1591)年附せらるる、別当大宮寺神職中野右近社領の内十五石づつ配当せり、各当社の惣門より二町程を隔てをれり、縁起に云、当社は人王七十代後冷泉院の御宇天喜年中(1053-57)奥州の夷賊蜂起せし時、鎮守府将軍源頼義勅を蒙り、奥州に向ひ給はんとて当所を過ぎ給ふ時、空中に奇雲たなびき、さながら白幡の如くなりければ、将軍奇異の思をなし、是宇佐八幡の影向せるならんとて、則当社を勧請し給う(中略)、しかるに天文年中(1532-54)長尾景虎の乱によりて、兵火の為めに社檀ことごとく焼失し、什物等すべて烏有となり、一物をものこさず、天正年中にいたり東照宮より神領を附せらると見えたり(中略)、祭礼は9月19日」とある。文中の縁起は天正19(1591)年12月に別当某が記述したものであるという。
当宮は旧和田村の鎮守であると同時に、明治5年11月に郷社、昭和41年7月には別表神社となった。祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后である。なお古殿内には石体が奉安されている。石体と関連して旧境内地の一地区(善福寺川沿いの台地)から二十三区内ではじめての方形周溝墓3基が発見され(昭和44年)話題になった。とくに第一号墓からは軟玉製の勾玉1個と、ガラス製の小玉12個が出土した。井草八幡宮のばあいも周辺から重要文化財に指定されている縄文時代の顔面把手付釣手形土器が発見されており、かような立地に大社が設けられているのは歴史上当然なことであろう。おそらく、当宮の地域も太古から景勝の地であったのであろう。
当宮の創建は康平6(1063)年、源頼義凱旋の際、記念の地として、岩清水八幡宮を勧請したと伝えている。現存する史料で、当宮の存在を知らしめるものは、貞治元(1362)年12月に中野郷大宮住僧が紀伊国熊野那智神社に提出した「武蔵国願文」がもっとも古く、すでにこの頃、別当大宮寺の存在が知られ、かつ当地の存在をも類推できる。かって境内から延文2(1357)年・貞治2(1363)年などの板碑が出土したことがさらにこれを裏付ける。「新編武蔵風土記稿」には和田村の検地の年代について「先年名主の家火災にかかりて古き記録をも失ひたれば詳ならず」と記しているが、現に天正19年9月の「武州多東郡大宮内和田村縄打水帳」の写本が残存しており、この時点で徳川家康は左の社領三十石を寄進したのであろう。
寄進 大宮八幡宮
武蔵国多東郡中野郷大宮之内三拾石之事右令寄附事、
天正19年辛卯11月
また、寛永10(1633)年5月の「関東真言宗新義本末寺帳」をみると、
中野宝仙寺 寺領15石
末寺 世田谷勝国寺 寺領12石
中野大宮前大宮寺是ハ門徒寺領30石
とあり、別当大宮寺と合せて寺領30石を拝領していたことがわかる。(杉並の神社より抜粋)

新編武蔵風土記稿による大宮八幡宮の由緒

(和田村)
八幡社
除地、六萬坪、小名大宮にあり、社領御朱印三十石、天正十九年附せらる、別當大宮寺神職中野右近社領の内十五石づつ配當せり、各當社の惣門より二町程を隔てをれり、縁起に云、當社は人王七十代後冷泉院の御宇天喜年中奥州の夷賊蜂起せし時、鎮守府将軍源頼義勅を蒙り奥州に向ひ給はんとて當所を過ぎ給ふ時、空中に奇雲たなびき、さながら白幡の如くなりければ、将軍奇異の思をなし、是宇佐八幡の影向せるならんとて、則當社を勧請し給ふ、因て降幡山妙雲院と號せり、その後堀川院の御宇奥州の武衡近國をなやまし、王命にそむきければ、寛治元年源義家追討の勅を承はり、かの地に向ひ給ふ時、天喜の例に倣て幣帛及びくさぐさの寶物を納め給ふ、又遥の星霜をへて文治五年鎌倉右大将泰衡追討の勅をうけ、奥州に打向はんとて此所を過ぎし時、山中より白雉二羽飛去りしかば、是八幡擁護の奇瑞ならんとて、いさみて進發し、日ならずして凶賊を平げ、梶原景時をして當社に幣帛を奉せしむ、しかるに天文年中長尾景虎の亂によりて、兵火の爲めに社檀ことごとく焼失し、什物等すべて烏有となり、一物ものこさず、天正年中にいたり東照宮より神領を附せらると見えたり、此縁起天正十九年極月別當某記せしものなりといへど、其後焼失せしを後人つづりなせしものにて、殊に武衡追討の勅を蒙り、奥州に赴き征伐せしは寛治五年のことにして、年代等も定かならざれば全文をばもらせり、此等のこと上りし世のことなれば其詳なるをしらず、神主の傳に文治五年七月十九日鎌倉右大将出陣の時、當社へ祈念あり、先陣畠山次郎重忠此所に陣をとり、其餘三浦平太義村、葛西三郎清重・工藤小次郎行光・同三郎祐光・狩野五郎親光・藤澤次郎近等暫く在陣し、遂に逆徒を平げ歸陣せり、此日九月十九日のことなれば、嘉例なりとて祭禮は此日に定めたりと云、【東鑑】を閲るに十月廿四日右大将録倉御歸者とあれば、此頃の事を云にや、されどことに附會にいでたりと見ゆれば信じがたし、或は云鎌倉八幡の祭は八月十五日ゆへ、當社を九月十五日に定めたりしが、先年玉川水溢の時渡船なしがたく、其日をのべて九月十九日に祭式を行ひしにより、遂に此日となれりとぞ、
惣門。道の邊にあり、此道は古への鎌倉街道なりと云、
鳥居。惣門を入て正面にあり、木にて造れるものなり、
中門。惣門を入て百五十間許にあり、一丈に五尺、
本社。二間に一間、高欄付神體三軀、木の立像にて各五寸許、作知れず、厨子三重にして其内に安ず、外厨子高二尺、中は高さ一尺五寸、内は高さ一尺餘、前立一軀木の立像にして衣冠せし形なり、春日の作と云、本地彌陀の立像を安ず、長一尺、脇士觀音勢至、是も木の立像にて各七寸許、弘法の作と云、傳へ云此三軀は應神天皇・仁徳天皇・武内宿彌なり、これを甲羅明神と云ふ、
拝殿。六間に二間半、向拝あり、二間に一間、
護摩所。前のつづきにあり、三間四方、
鐘樓。中門を入て左の方にあり、九尺四方鐘の徑り二尺六寸、寶永七年六月十五日鑄造、
神楽堂。拝殿より北によりてあり、二間に三間、
東照宮。御社は本社の後にあり、
末社。山神社、天神社、太神宮、若宮社、稲荷社、三島社。右の六社何れも本社の左右にあり、小祠。(新編武蔵風土記稿より)

別当寺であった大宮寺について

大宮寺は、中野宝仙寺が阿佐ヶ谷から中野へ移転した際に、永享元年(1429)八幡宮近くの杉並区大宮1-15辺に開創しました。明治維新の神仏分離により廃寺となっています。

降幡山妙雲院大宮寺
所在:杉並区大宮1-15辺
開創:永享元年(1429)
開山:聖氷(本寺宝仙寺中興、永享3年2月24日寂)
本寺:宝仙寺(中野区)
本尊:不動明王立像
朱印地:15石
備考:大宮八幡宮の別当寺。元来、八幡宮の別当寺は宝仙寺であったが、永享元年宝仙寺が阿佐ヶ谷より中野に移った際、時の住持聖氷が開山となり、八幡宮社近くに開創したのが当寺である。天文末年(1552-55)上杉謙信の兵火に焼かれたが、江戸期を通じて大宮八幡宮別当寺として栄え、明治維新の神仏分離で廃された。(「杉並の寺院」より)


大宮八幡宮の周辺図