智光院|杉並区松ノ木にある臨済宗妙心寺派寺院

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片岡山智光院|桂昌院殿心月智光尼が開基、大正元年当地へ移転

智光院の概要

臨済宗妙心寺派寺院の智光院は、片岡山と号します。智光院は、もと桂昌院と号し、桂昌院殿心月智光尼が開基となり、寛永7年(1630)上野車坂下に創建、元禄11年(1698)浅草新寺町へ移転、宝永2年(1705)には開基者の法名改号にともない智光院と改称したといいます。大正元年当地へ移転しました。

智光院
智光院の概要
山号 片岡山
院号 智光院
寺号 -
住所 杉並区松ノ木3-33-30
本尊 木造釈迦如来坐像
宗派 臨済宗妙心寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



智光院の縁起

智光院は、もと桂昌院と号し、桂昌院殿心月智光尼が開基となり、寛永7年(1630)上野車坂下に創建、元禄11年(1698)浅草新寺町へ移転、宝永2年(1705)には開基者の法名改号にともない智光院と改称したといいます。大正元年当地へ移転しました。

杉並区教育委員会掲示による智光院の縁起

片岡山智光院は臨済宗妙心寺派の寺院で、本尊は釈迦牟尼仏です。
「御府内備考続編」によれば、江戸時代初期の寛永7年(1630)、上野東叡山(寛永寺)東側の車坂下に片岡大麟によって開創されたといわれています。
智光院の院号は開基である旗本天野周防守雄光の室(北畠大納言具教の息女)の法名・智光院殿に由来しています。
元禄11年(1698)車坂下から浅草新寺町(現台東区西浅草)に移り、その後中興開基とされる旗本佐藤駿河守吉次によって諸堂宇が整えられたと伝えられています。そして、武家の江戸寺として天野家・佐藤家をはじめ、伊予の加藤家、近江の遠藤家などの手厚い保護により寺運を伸展しました。しかし、安政2年(1855)10月の江戸大地震では本堂の倒壊という被害を蒙っています。
大正元年、区画整理のため現在地に移転し今日に至っています。
墓地には文化・文政期(1804-29)にかけて江戸北町奉行として活躍した永田備後守正道の墓があります。
また寛正年間(1460-65)造立の板碑が保存されているほか、承応4年(1655)につくられた地蔵菩薩坐像も安置されています。
なお、本堂は中野区福蔵院の本堂を移築したものです。(杉並区教育委員会掲示より)

「杉並の寺院」による智光院の縁起

旗本天野周防守雄光室(北畠大納言具教女)が開基となり、子息佐左衛門光得の菩提所として建立した寺で、開基法名桂昌院殿心月智光尼に因んで桂昌院と称した。しかし、その後宝永2年(1705)、開基法名が前掲のように変わったため寺名も智光院と改称されたという。
開山・二世共勧請で、実際は三世大麟玄綱が開山、その俗称片岡が山号となっている。なお、当寺中興開基である佐藤駿河守吉次も旗本で、その子信次が葬られて以降、当寺を菩提寺としている。(「杉並の寺院」より)

御府内寺社備考による智光院の縁起

京都妙心寺末、浅草新寺町
片岡山智光院(境内拝領地七百坪二百七十七坪御預地)
拝領町屋鋪弐百坪弐合四勺四才。
寛永七庚午年、東叡山之東車坂下ニ而起立仕候処、其後元禄十一寅年於当所ニ前書坪数之通拝領仕引移申候。
勧請開山覚印大和尚、寛永十酉年十二月五日海禅寺ニ而寂。
創建開山大麟和尚、姓は片岡氏。覚印大和尚弟子、寛文五巳年二月廿八日寂。
開基了心院、佐藤美濃守先祖駿河守吉次与智光院、天野権十郎先祖周防守雄光婦人北畠大納言之息女、両開基二御座候。
拝領町屋鋪
拙寺五世牧禅和尚之姉、海津事法名永寿院与申候、三ノ丸御老相勤罷在候而、元禄十六未年十一月三日町屋鋪拝領仕候処、宝永二酉年御願中上候上末々迠被下置候。御墨附七月四日項戴仕候故、乍恐桂昌院様為御菩提ニ茂与御墨附幷譲状相添末々迠御回向申上候様ニ牧禅和尚江被譲候。御墨附御文言幷紙幅六寸ニ八寸三分
海津
右先年町屋敷被下候。
すゑゝ迠拝領屋敷ニ候間
左様ニ相心得申さる
へく候。以上
七月四日松平美濃守。
永寿院まで牧禅和尚江譲状之写
町屋敷譲渡証文事
椛町山元町拝領地、京間九間壱尺五寸、裏行弐拾弐間。三方角之町屋敷譲渡申所実正也。末々一家共少茂違乱為無之、仍而一札如件
正徳五年乙未二月四 永寿院
証人 弥兵衛
ぼくぜん殿。
永寿院まで御老女方江届書之写(中略)。
有徳院様御代、享保十四酉年御老中松平左近将監様御尋ニ付、町御奉行所まで家守弥兵衛御呼出し有之候而、大岡越前守様御吟味二而御墨附指上候様こ被仰付。則家守弥兵衛を以右
御墨附差上候所、五十日余御留置候而、御吟味之上又候家守弥兵衛御呼出し有之重キ
御墨附之儀ニ候得者、向後随分大切ニ所持仕候様ニ松平左近将監様被仰渡候趣、大岡越前守様被仰渡御墨附御返し被下置、難有所持仕罷在候。其後延享元子年譲り御吟味有之候ニ付、家守方まで町年寄江書附差出し申候。又候翌年十一月譲り御吟味ニ付御墨附之写幷譲り状之写是又町年寄江家守方まで書附為出候。其後宝暦八寅年六月拝領地沽券ニ直し何程之地面ニ候哉。町方江尋有之候ニ付家守方ニ而積り書仕候而町年寄江差出申候。
拝領地間数
表口京間九間壱尺五寸
裏幅京間九間四尺
裏行西方京間弐拾弐間東方同弐拾壱間五尺壱寸弐分
此坪数弐百坪弐合四勺四才
右沽券金高四百五拾両、小間二五拾両程
(中略)
本堂。間口八間奥行七間
本尊釈迦如来座像、長壱尺三寸。
稲荷社。壱間四方。
弁珠殿額字、土屋賢筆本堂ニ有之
妙見堂(間口九尺奥行二間)。妙見菩薩立像
以上乙酉書上
境内七百坪外八拾坪、預り地百九拾七坪。享保十七子年七月預地知光院(御府内寺社帳)(御府内寺社備考より)


智光院の周辺図