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天桂寺|杉並区成田東にある曹洞宗寺院

天桂寺の概要

曹洞宗寺院の天桂寺は、月光山と号します。天桂寺は、岡部小右衛門吉正(初代吉正)が、慶長年間(1596〜1614)に小庵を創建、寛永10年500石の加増を受けた際、中野成願寺六世鉄叟雄鷟和尚を開山に迎えて堂宇を整えたといいます。開基には、氏祖岡部六弥太忠澄(一谷合戦で平薩摩守忠度を討取った猛将)および父忠吉を開基としたと考えられています。

天桂寺
天桂寺の概要
山号 月光山
院号 -
寺号 天桂寺
住所 杉並区成田東4-17-14
本尊 木造聖観音菩薩坐像
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



天桂寺の縁起

天桂寺は、岡部小右衛門吉正(初代吉正)が、慶長年間(1596〜1614)に小庵を創建、寛永10年500石の加増を受けた際、中野成願寺六世鉄叟雄鷟和尚を開山に迎えて堂宇を整えたといいます。開基には、氏祖岡部六弥太忠澄(一谷合戦で平薩摩守忠度を討取った猛将)および父忠吉を開基としたと考えられています。

杉並区教育委員会掲示による天桂寺の縁起

月光山天桂寺は曹洞宗の寺で、聖観音像を本尊とし、正徳三年(一七一三)銘の地蔵菩薩像も安置されています。
開創は慶長年間(一五九六〜一六一四)と伝えられ、小田原北条氏の家臣岡部忠吉が氏祖岡部六弥太忠澄を勧請開基として一庵を建てたのが始まりといわれています。その後、寛永十年(一六三三)頃、忠吉の子で旧田端村の領主となった幕府旗本岡部吉正が、中野成願寺六世鉄叟雄鷟和尚を請し、開山として再開基となり、伽藍を整え、当寺の基を開きました。また、延宝三年(一六七五)吉正の孫岡部忠豊が葬られて以来、岡部家の葬地となりました。
杉並の地名は、この岡部氏が青梅街道沿いに植えた杉並木に由来するといわれ、墓地には岡部家歴代の墓があります。また浮世絵師嶺斎泉里が描いた「岡部六弥太澄武者絵」は当寺の寺宝となっています。
境内にある寛文四年(一六六四)銘の聖観音石像は俗に「庚申観音」と呼ばれる珍しい石仏です。
当寺は安政三年(一八五六)大暴風雨にあって、建物はすべて倒壊し、記録什宝類も破損腐朽してしまいました。現本堂は約六十年後の大正十二年に建立したものです。(杉並区教育委員会掲示より)

「杉並の寺院」による天桂寺の縁起

北条氏の重臣松田尾張守康秀の家臣で、北条氏滅亡後に徳川氏の旗本となった岡部小右衛門吉正(初代吉正)が、寛永一〇年五百石の加増を受けた際、采地となった田端村に菩提寺を建立し、中野成願寺の鉄叟を開山としたのが当寺開創である。その折に氏祖岡部六弥太忠澄(一谷合戦で平薩摩守忠度を討取った猛将)および父忠吉を勧請開基としたようである。
「新編武蔵」旧田端村天桂寺の項は、この吉正の父岡部外記忠吉が此地を領し、寛永頃までは小庵であった当寺を開山鉄叟と力を合わせて大いに堂宇を造立して菩提所としたとし、忠吉の没年元和三年、法名月叟道心と載せ、開基忠吉の位牌が存在するとも記している。しかし、元和三年に没した忠吉が寛永頃に堂宇を建立する筈はなく、また北条氏滅亡後の忠吉は、高麗郡(埼玉県)に蟄居しているのである。これは、明らかに父子を混同したものである。このように「新編武蔵」が父の忠吉を開基としたため、その没年から当寺開創時期も遡られて慶長年間とされているが、事実は、吉正が加増を受けた寛永一〇年より鉄叟が寂した寛永一二年の間に開創されたとするのが妥当であろう。
なお、岡部家氏祖六弥太忠澄は武蔵國の住人で、その墓と伝えられるものがかつて芝高輪の浄土宗常光寺(現品川区上大崎)にあったといわれる。(「杉並の寺院」より)

新編武蔵風土記稿による天桂寺の縁起

(田端村)天桂寺
除地、九畝十三歩、小名関口にあり、月光山と號す、禅宗曹洞派にて郡中野方領本郷村成願寺末、寺傳に云開山は越前国永平寺世代の僧鉄叟と云、寛永十二年九月示寂、當寺は寛永の比まで境内も狭く庵室の如くなりしが、此地を岡部外記忠吉へ賜ひしにより、忠吉願をおこし新に境内の地を寄附し、開山鐵叟と力をあはせ大に堂宇を造立し、己が菩提所とす、此人元和三年正月九月卒せり、月叟道心と諡す、今の堂宇は岡部小右衛門が寛文年中建立せしなり、其かみは堂宇も頗る美を盡せしならん、今は修造のことも疎になりゆきて、堂塔破壊せり、廣さは九間に七間西向なり、本尊正観音長二尺一寸なるを安す、開基忠吉が位牌を置(新編武蔵風土記稿より)


天桂寺所蔵の文化財

  • 岡部氏一族の墓附位牌(杉並区区指定文化財)
  • 寛文四年銘石造聖観音庚申供養塔(杉並区登録文化財)
  • 寛政七年銘石造地蔵菩薩立像
  • 岡部六弥太忠澄武者絵(嶺斎泉里画)

天桂寺の周辺図


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