中道寺|杉並区荻窪にある日蓮宗寺院

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大光山中道寺|天正10年に草創、願成の祖師・黒眼の祖師

中道寺の概要

日蓮宗寺院の中道寺は、大光山千葉院と号します。中道寺は、大光院日道が当地に天正10年(1582)草庵として建立、その弟子日法が元和2年(1616)に大光山中道寺と寺号を称し、寛永13年(1636)当地に土着していた千葉氏の家臣宇田川氏より寺地の寄進を受けて堂宇を整えたといいます。当寺の本尊日蓮上人像は「願成の祖師」「黒眼の祖師」と称され崇敬を集めています。

中道寺
中道寺の概要
山号 大光山
院号 千葉院
寺号 中道寺
住所 杉並区荻窪2-25-1
本尊 木造日蓮上人坐像
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 中道寺会堂
備考 境外仏堂:荻窪不動堂



中道寺の縁起

中道寺は、大光院日道が当地に天正10年(1582)草庵として建立、その弟子日法が元和2年(1616)に大光山中道寺と寺号を称し、寛永13年(1636)当地に土着していた千葉氏の家臣宇田川氏より寺地の寄進を受けて堂宇を整えたといいます。

杉並区教育委員会掲示による中道寺の縁起

当寺は大光山千葉院と號し、日蓮宗の寺院としては区内でも古い寺院の一つです。
本尊は「願性の祖師」と呼ばれる黒目の日蓮上人像で、その名のごとく玉眼作りの目が特徴的です。また、伝教大姉の作と伝える鬼子母神像も祀られています。
当寺所蔵の、三世日治が記した「中道寺由来記」によれば、天正十年(一五八二)大光院日道がこの地に草庵を建てたのが開創で、弟子日法が、元和二年(一六一六)に大光山中道寺を称したといわれています。
そして、寛永十三年(一六三六)、下総(千葉県)の豪族千葉氏の家臣でこの地に土着した宇田川氏が旧主の菩提のために土地を寄進し、それによって堂舎を整えたと伝えられています。安房誕生寺の末寺となったのも、この頃と考えられています。
境内の鐘楼と山門を兼ねた鐘楼門は、安永二年(一七七三)に建てられたもので、区内では珍しい建物です。
境内北側に祀られている宝暦六年(一七五六)の銘のある不動尊石碑は、当時流行した熱病を鎮めるために造られたといわれ、現在も地元の人々の厚い信仰を集めています。
なお、境内の鎮守(妙王)稲荷はかつて関東管領上杉顕定の家臣中田加賀守の守護神であったといわれ、大正時代当寺に奉安されたものです。(杉並区教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による中道寺の縁起

(下荻窪村)中道寺
年貢地、境内四百坪、小名本村にあり。大光山と号す、日蓮宗にて房州小湊誕生寺末、客殿八間に六間南向、本尊日蓮の木像長一尺二寸、開山を日道と云、元和元年八月十五日示寂、開基の人詳ならず。
鐘楼堂。本堂の南にあり。三間に二間、鐘の径り二尺六寸、高三尺一寸、寛保二年に鋳造せしものなり。
鬼子母神堂。本堂の西にあり。二間半に三間の堂にて南向なり。木の立像八寸なるを安ず。傳教の作と云。
稲荷祠。鬼子母神の並にあり。一間半に二間の祠にて南向なり。神体なし。前に鳥居をたてり。
不動堂。除地、百六十八坪、村の東北の方にあり。不動と云う文字を梵字もてえりし石標あり。今は堂を廃せり。(新編武蔵風土記稿より)

「杉並の寺院」による中道寺の縁起

「中道寺由来記」によると、天正一〇年、開山日道が此地に草庵を建て、寂後弟子日法が遺志を継いで、元和二年大光山中道寺と山号寺号を付し、寛永一三年檀家宇田川茂右衛門の土地寄進により寺容を整えたと伝える。また一説には、天文元年正月に本門寺池上家より創立の願いを得て開創されたともいわる。
伝教大師作といわれる鬼子母神像は、「新編武蔵」下荻窪村中道寺の項に「鬼子母神 本堂ノ西ニアリ、二間半ニ三間ノ堂ニテ南向ナリ、木ノ立像八寸ナルヲ安ス、伝教ノ作ナリト云」と伝えるものである。
境内北隣の宝暦六年銘の不動尊石碑は、当時流行した熱病を鎮めるために造立されたという。(「杉並の寺院」より)


中道寺所蔵の文化財

  • 木造日蓮上人坐像「願成の祖師」「黒眼の祖師」(区登録文化財)
  • 中道寺鐘楼門(杉並区指定文化財)
  • 中道寺由来記
  • 宝暦六年銘不動尊石碑

中道寺鐘楼門

この鐘楼門は、天明元年(一七八一)に竣工した表門と鐘楼を兼ねたもので建築当初の姿をよくとどめています。一間一戸の楼門形式の四脚門ですが、上層は鐘楼で桁行三間・梁間二間、下層は桁行一間・梁間二間とし、上層に腰組付の縁を廻していあすが高欄はありません。建築様式は基本的には禅宗様で、肘木は和様とし下層の頭貫上に蟇股を入れ、江戸期の折衷様の特徴を示しています。本鐘楼門は都内においては珍しい建築遺構であり、建築史上からも大変貴重なものです。(杉並区教育委員会掲示より)


中道寺の周辺図