三囲神社|三井家の守護神、隅田川七福神の大国神・恵比寿神
三囲神社の概要
三囲神社は、墨田区向島にある神社です。三囲神社の創建年代は不詳ですが、文和年間(1353-1355)近江三井寺の僧源慶が東国遍歴の際に社を改築したといいます。改築しようとした際、土中より白狐にまたがる老翁の像を得、白狐が現れて神像を三回回ったことから三囲神社と改称したといいます。三井家(三越などの創業家)が江戸に進出して以来、三井家の守護神として崇敬を集め、三井家先祖をまつる顕名霊社や三井邸から移設した三角石鳥居が境内に安置してあります。また隅田川七福神の大国神、恵比寿神です。
社号 | 三囲神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | 月読社、富士見神社、福寿神社・廣富神社、白狐二祠 |
住所 | 墨田区向島2-5-17 |
祭日 | 例祭日4月上旬 |
備考 | 隅田川七福神の大国神、恵比寿神 |
- 三囲神社隅田川側の鳥居
- 三囲神社鳥居
- 三囲神社社殿
- 三囲神社神楽殿
- 日比翁助石垣の碑
- 三井家を祀る顕名霊社
- 三井家より移設の三角石鳥居
- 三越の礎石
- 大国神と恵比寿神
- 宗因白露の句碑
- 白狐祠
- 隅田川七福神色紙
三囲神社の由緒
三囲神社の創建年代は不詳ですが、文和年間(1353-1355)近江三井寺の僧源慶が東国遍歴の際に社を改築したといいます。改築しようとした際、土中より白狐にまたがる老翁の像を得、白狐が現れて神像を三回回ったことから三囲神社と改称したといいます。
東京都神社名鑑による三囲神社の由緒
創立の由緒は詳らかではないが、享和三年(一八〇三)の「三匝山碑」によれば、文和年間(一三五二-五五)に近江三井寺の僧源慶が中興した事蹟を伝えている。元禄六年(一六九三)、其角南乞の故事があって世に知られるようになり、元禄十年(一六九七)に幕府の縄人によって社地一反三歩が除地となる。享保元年(一七一六)越後屋三井高治・高久・高房が神祇管領ト部兼敬に請い、正一位の神位を受けるとともに、同八年(一七二三)高房が願主となって社地を拡げ、社殿を造営して当社の体裁が整った。明治六年稲荷神社の社名を三園神社に改めた。(東京都神社名鑑より)
隅田川七福神参拝の案内による三囲神社の由緒
三囲神社は、神楽殿の東側に建つ「三匝山祀碑」によると、現在地の北方、田圃の中にあって「田中稲荷」と呼ばれていました。文和年間(1353-1355)近江三井寺の僧源慶が東国遍歴のとき、牛島のこのあたりに壊社をみとめ、弘法大師ゆかりのことを聞いて、社を改築しようとしたところ、土中より白狐にまたがる老翁の像を得ました。その時、白狐が現れ、神像を三回まわったところから、「三囲」の名としたといいます。
神社の本殿は震災・戦災を免れ、安政(1854-1860)の建築と伝えています。元禄6年(1693)に、俳人宝井其角が村人に代わって雨乞いのために句を詠じ、翌日雨ふったと「五元集」にみえています。このことが世上に広く伝えられ、「江戸砂子」や「江戸名所図会」にも載りました。
また三囲にあやかって、三井氏が江戸に進出したさい守護神と崇め、以来三井家一統の尊崇は続いてきました。
境内には隅田川七福神のうち恵比寿神・大国天の二神が祀られ、その内殿は文久3年(1863)大工棟梁清水嘉助が寄進した立派なものです。(隅田川七福神 参拝の案内より)
隅田川七福神参拝の案内による三囲神社の由緒
三井寺の僧源慶が弘法大師債権の由来を持つ荒れた祠を再建したとき、出土した神像の周りを、白狐が現れ三回巡り、消え去ったことから「みめぐり」の名が起こったとされる。大国神・恵比寿神は越後屋(現三越)にまつられていたもの(隅田川七福神 参拝の案内より)
三囲神社所蔵の文化財
- 老翁老嫗の石像
- 宗因白露の句碑
- 宝井其角「ゆうだちや」の句碑(雨乞いの句碑)(墨田区登録文化財)
- 三囲神社の石造常夜燈
- 石造鳥居(堤下の大鳥居)(墨田区登録文化財)
- 三囲神社本社(墨田区登録文化財)
- 狛犬(墨田区登録文化財)
- 三囲神社の石造神狐(墨田区登録文化財)
- 菱湖先生之碑
- 日比翁助の歌碑(いしがきの)
- 萩廼家裏住の辞世狂歌碑(楠の)
- 服部山蝶の句碑(きぬぎぬの)
- 朱楽菅江辞世狂歌碑(執着の)
- 秦蒙将軍之象の碑
- 富田木歩の句碑(夢に見れば)
- 助高屋小伝次之碑
- 表功碑
- 木遺音頭の碑
老翁老嫗の石像
元禄の頃、この三囲稲荷にある白狐祠(びゃっこし)を守る老夫婦がいました。願う事のある人は老婆に頼み、老婆は田んぼに向かって狐を呼びます。すると、どっからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまうのです。不思議なことに、他の人が呼んでも決して現れることがなかったそうです。
俳人其角は、そのありさまを「早稲酒や狐呼び出す姥が許」と呼んでいます。老婆の没後、里人や信仰者がその徳を慕って建てたのが、この老夫婦の石像であると伝えられています。老嫗像には「大徳芳感」、唐翁像には「元禄14年辛巳5月18日、四野宮大和時永、生国上州安中、居住武州小梅町」と刻まれています。(平成18年12月 墨田区教育委員会掲示より)
宗因白露の句碑
「白露や無分別なる置きどころ」と刻まれています。文化9年(1812)、西山宗因の流れをくむ基外らが発起人となり、始祖宗因の作品中でもっともすぐれたこの句を選んで建立したものです。
宗因は慶長10年(1605)肥後(現熊本県)に生まれた江戸時代初期の著名な連歌師、俳人です。連歌では主に宗因、俳諧では一幽、西翁、梅翁などと称しました。のちに大阪天満宮の連歌所宗匠の職につき、連歌界の重鎮として知られました。俳諧を始めたのは晩年に近く、あくまで余技としてでした。詠みぶりは軽妙洒脱、急速に俳諧の人気を集め、談林俳諧勃興の起因となった人で、芭蕉は「此道中興開山なり」と記しています(平成18年12月 墨田区教育委員会)
日比翁助 石垣の碑
いしがきの 小石大石持合ひて 御代はゆるがぬ 松ヶ枝の色 日比美勲
日比翁助は号を美勲と称し三越呉服店の会長。わが国近代百貨店の創始者であった
爾来百年 松を新たに植え 旧観を復した
三囲神社大国神恵比寿神
三囲神社の別殿には、古くから大国、恵比寿二神の神像が奉安されている。もとは三井の越後屋(今の三越)にまつられていたものである。江戸時代の終り頃、町人層の好みがさまざまな分野で表面に現れ、多くの人々によって支持された時代の中で、隅田川七福神が創始されたとき、当社の二神もその中に組み込まれたのであった。
大国神は慈悲円満と富貴の表徴、恵比寿神は豊漁をもたらす神、商家の繁栄を授ける神として、庶民の信仰を集め、その似かよった御神徳から一対の神として崇められることが多い。、大国を同じ音の大黒とも書く。
顕名霊社
顕名霊社: 三井家先祖をまつる。彫刻の下絵は川端玉章。明治7年建。平成6年移築
三角石鳥居:三井邸より移す。原形は京都太秦・木島神社にある
三囲神社の周辺図
参考資料
- 東京都神社名鑑