牛島神社|慈覚大師が貞観年間に建立、牛御前社、本所総鎮守
牛島神社の概要
牛島神社は、墨田区向島にある神社です。牛島神社は、貞観年間(859-79)の頃慈覚大師が建立したと伝えられています。かつては牛御前社と称しており、その由来については、慈覚大師が一草庵で須佐之男命の権現である老翁に会った際の託宣により建立したと伝えます。本所総鎮守として崇敬を集め、明治時代には郷社に列格していました。
社号 | 牛島神社 |
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祭神 | 須佐之男命、天之穂日命、貞辰親王命 |
相殿 | - |
境内社 | 小梅稲荷神社 |
住所 | 墨田区向島1-4-5 |
祭日 | 例祭日9月15日 |
備考 | 本所総鎮守、旧郷社、摂社:摂社若宮牛島神社 |
牛島神社の由緒
牛島神社は、貞観年間(859-79)の頃慈覚大師が建立したと伝えられています。かつては牛御前社と称しており、その由来については、慈覚大師が一草庵で須佐之男命の権現である老翁に会った際の託宣により建立したと伝えます。本所総鎮守として崇敬を集め、明治時代には郷社に列格していました。
「すみだの史跡文化財めぐり」による牛島神社の由緒
関東大震災で焼失する被害を蒙りましたが、かつては少し北の墨堤常夜灯の東にあり、墨田公園の開設にあたり昭和7年に現在地に移りました。旧地には記念標石が建っています。
縁起によると、貞観(859-879)のころ慈覚大師が一草庵で須佐之男命の権現である老翁に会い、「師わがために一宇の社を建立せよ、若し国土に騒乱あらば、首に牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わし、天下安全の守護たらん」との託宣により建立したと伝え、牛御前社と呼ぶようになったとも伝えます。また「江戸名所図会」では、牛島の出崎に位置するところから、牛島の御崎と称えたのを、御前と転称したものであろうと説明しています。本所総鎮守の社として知られています。 また、由緒によると、治承4年(1180)伊豆に旗上げした頼朝が、敗れて房州に逃れ、再挙して隅田川を渡る際には、千葉介常胤が当社に祈願してことなきを得たといいます。以後千葉氏の崇敬が厚く、宝物として月輪の紋をつけた千葉家の旗が伝わり、箱書に「此指物自先祖 持来候 然而牛御前宮者 先祖千葉家被再興候 慶長18(1613)年9月15日 国分宗兵衛正勝敬白 牛御前別当最勝寺」とあります。
また当社には、後刻と思われる貞観17年(875)銘をもつ板碑が所蔵されていましたが、震災時に損壊して現物は実見ことはできません。なお、その拓本が所蔵されています。(すみだの史跡文化財めぐりより)
新編武蔵風土記稿による牛島神社の由緒
牛御前社
本所及牛嶋の鎮守なり。北本所表町最勝寺持。祭神素盞嗚尊は束帯坐像の画幅なり。王子権現を相殿とす。本地大日は慈覚大師の作縁起あり信しかたきこと多し。其略に、貞観二年慈覚大師当国弘通の時行暮て傍の草庵に入しに、衣冠せし老翁あり云。国土悩乱あらはれ首に牛頭を戴き悪魔降伏の形相を現し国家を守護せんとす。故に我形を写して汝に与へん我ために一宇を造立せよとて去れり。これ当社の神体にて老翁は神素盞嗚尊の権化なり。牛頭を戴て守護し賜はんとの誓にまかせて牛御前と号し、弟子良本を留めてこの像を守らしめ、本地大日の像を作り釈迦の石佛を彫刻してこれを留め、大師は登山せり。良本これより明王院と号し、牛御前を渇仰し、法華千部を読誦して大師の残せる石佛の釈迦を供養佛とす。其後人皇五十七代陽成院の御宇聖和天皇第七の皇子故有て当国に遷され、元慶元年九月十五日当所に於て斃せられしを、良本祟ひ社傍に葬し参らせ其霊を相殿に祀れり。今の王子権現是なり。治承四年源頼朝諸軍を引率し下総国に至る時に、隅田川洪水陸地に漲り渡るへき便なかりしに、千葉介常胤当社に祈誓し船筏を設け大軍恙なく渡りしかば、頼朝感して明る養和元年再ひ社領を寄附せしより、代々国主領主よりも神領を附せらる。天文七年六月廿八日後奈良院牛御前と勅号を賜ひ次第に氏子繁栄せり。北条家よりも神領免除の文書及神寶を寄す其目後に出す。又建長年中浅草川より牛鬼の如き異形のもの飛出し、嶼中を走せめくり当社に飛入忽然として行方を知らず。時に社壇に一つの玉を落せり。今社寶牛玉是なりと記したれど、旧きことなれば造ならさること多し。
神寶并神領免状古碑一基
長さ三尺三寸幅一尺五寸青石なり。前面に釈迦の立像背面に奉造立釈迦像一体貞観十七未天三月日、法華千部明王院の廿七字を刻す縁起載る所の供養佛也しと云。
牛玉一顆由来は本社の條に見ゆ。
太刀一振
一尺八寸許箱に納む。蓋の面に千葉常胤神息と記し、裏に宝暦二壬申年十二月吉日中田五郎左衛門冶興と記し名の下花押在。
指物一
長三尺八分余幅一尺一寸六分箱に入れ蓋の裏書に
此指物自先祖持来候、然而牛御前宮者、先祖千葉家被致再興候依為御宮、則指物奉献納候、末代迄御傳置可被下候、仍寄進之状如件、
慶長十八丑歳九月十五日、国分宗兵衛正勝敬白
牛御前宮御別当最勝寺
右指物は本所表町名主中田五郎左衛門の所持なせしを、己か支配に国分氏宗兵衛といへるものあり。彼は千葉家の支族なりとて譲り与しを、後宗兵衛当社に納めしと云。
古文書二通
須崎堤外畠之事、合百八十よ所、自前々茂神領のよし聞届申候。為其一札進候仍如件。
永禄十一年戊辰霜月十五日、景秀花押
最勝寺御同宿中
石橋山合戦に付分捕之面々書翰之通備見山畢、景末花押
此文書の伝来をしらず。景末は何人なりや。石橋山合戦といへは梶原景季なるへけれど文字も違へり。(新編武蔵風土記稿より)
東京都神社名鑑による牛島神社の由緒
貞観二年(八六〇)慈覚大師が御神託によって須佐之男命を勧請して創祀し、のち天之穂日命を祀り、ついで清和天皇の第七皇子貞辰親王がこの地でなくなられたのを、大師の弟子良本阿闇梨があわせてお祀りし「王子権現」と称した。治承四年(一一八〇)九月源頼朝が大軍をひきいて下総国から武蔵国に渡ろうとした時、豪雨による洪水のために渡ることができなかった。その時武将千葉介平常胤祈厳し、神明の加護によって全員無事に渡ることができたので、頼朝は翌養和元年(一一八一)に社殿を造営し、多くの神領を寄進した。天文七年(一五三八)に後奈良院より「牛御前社」という勅号を賜わったといわれる。江戸時代は鬼門守護の社として将軍家の崇敬があつく、将軍家光は本所石原に社地を賜わりお旅所とした。明治初年以後牛嶋神社と称し、本所総鎮守として崇敬されている。大正十二年関東大震災で社殿等が炎上し、次いで帝都復興計画で隅田公園ができたため、向島一丁目(旧水戸邸跡)に移転、昭和七年現在の社殿が完成した。(東京都神社名鑑より)
牛島神社所蔵の文化財
- 撫牛(墨田区登録文化財)
- 烏亭焉馬「いそかすは」の狂歌碑(墨田区登録文化財)
- 神牛(拝殿前1対)(墨田区登録文化財)
- 狛犬(拝殿前3対)(墨田区登録文化財)
- 鳥居 文久2年銘(墨田区登録文化財)
- 殲蒙古仇碑記
- 荻園加藤先生之碑
- 太田南畝詩碑
撫牛
撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛島神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また子どもが生まれたとき、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。
この牛の像は、文政8年(1815)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。
明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は「幼年時代」で「どこかメランコリックな日ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。(墨田区教育委員会)
烏亭焉馬「いそかすは」の狂歌碑
いそかすは(がずば) 濡れまし物と 夕立の あとよりはるる 堪忍の虹 談洲楼烏亭焉馬
この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化7年(1810)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保3年(1743)生まれ、本所相生町5丁目(現緑1丁目)の大工の棟梁で狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談洲楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。
元禄時代にはひとつの話芸として確立した落語もその後衰えていましたが、天明4年(1784)に向島の料亭武蔵屋において、焉馬が自作自演の「噺の会」を催し、好評を得たことから江戸落語が盛んになっていきました。寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という呼び方が定着しました。
文政5年(1822)80歳で亡くなり、本所の最勝寺に葬られました。(現在は寺・墓共に江戸川区平井に移転)
牛島神社の周辺図
参考資料
- 東京都神社名鑑
- 新編武蔵風土記稿