弘福寺|墨田区向島にある黄檗宗寺院

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牛頭山弘福寺|鉄牛道機禅師が開山、隅田川七福神の布袋尊

弘福寺の概要

黄檗宗寺院の弘福寺は、牛頭山と号します。弘福寺は、かつて隅田村香盛島(高森島)にあった小庵を起源とし、延宝6年(1673)鉄牛道機禅師が黄檗宗弘福寺として創建したといいます。風邪除けの信仰を集める咳の爺婆尊や隅田川七福神の布袋尊を祀っています。

弘福寺
弘福寺の概要
山号 牛頭山
院号 -
寺号 弘福寺
住所 墨田区向島5-3-2
宗派 黄檗宗
葬儀・墓地 -
備考 隅田川七福神の布袋尊



弘福寺の縁起

弘福寺は、かつて隅田村香盛島(高森島)にあった小庵を起源とし、延宝6年(1673)鉄牛道機禅師が黄檗宗弘福寺として創建したといいます。

「すみだの史跡文化財めぐり」による弘福寺の縁起

かつて隅田村香盛島(高森島)にあった小庵を、延宝6年(1673)黄檗宗の寺として、江戸氏一族の牛島殿の城址に寺地を受け、ここに移し現在に至っていると伝えています。開山は鉄牛道機禅師で、開基は小田原城主稲葉正則です。鉄牛は石見の出身で、京都宇治万福寺の創建にも尽力し、大変行動力のあった禅僧と伝えられています。
現在の本尊釈迦如来像は、後世の松雲禅師の作といわれています。伽藍は関東大震災で焼失し、昭和8年に再建されました。黄檗宗特有の唐風の特徴を持ち、本堂両翼にある円窓、堂前の月台、柱にかかる扁額など、他の寺院にはあまり見られないものです。
また、森鴎外は少年時代、この地域で過ごしてもいますが、津和野藩主の菩提寺の関係から、没後ここに葬られています。しかし、震災後の隅田公園造成のため、三鷹禅林寺へ改葬されました。
黄檗宗の関係から鳥取藩池田家、津和野藩亀井家ゆかりの寺院として、多くの関係者の菩提寺となっています。なお隅田川七福神のうち、禅宗にちなみ「布袋尊」が安置されています。(すみだの史跡文化財めぐりより)

新編武蔵風土記稿による弘福寺の縁起

弘福寺
黄檗宗山城国宇治萬福寺の末、牛頭山と号す。当寺元善左衛門村内香積山といへる小庵なりしが、黄檗二代木庵の弟子鉄牛延宝二年爰に移して山号寺号をも今の如く改め、堂舎寮坊善美を盡して落成しければ、大家の帰依日々に増加し繁栄せり。開基は稲葉美濃守正則なり。元禄九年歿し湖信院泰應元如と法贈す。本尊釈迦恵心の作長三尺坐像なり。脇士迦葉阿難も同作にて立像長三尺五寸、延宝五年十一月二十一日厳有院殿御遊狩の時当寺に渡御ありて、堂舎の落成を上蘭まし々々白銀許多を賜ひ、夫より後たひ々々御膳所となれり。
総門。今は廃せり。
天王閣。弘福寺の三字を扁す。木庵の筆なり。左右に道泰玉麟現瑞林威金鳳来儀の聯あり。又正面に布袋後面の中央に韋駄天文殊、四隅に四天王を置り。共に運慶の作。楼上天王閣の三字を掲ぐ。是も鉄牛の筆也。
佛殿。大雄殿の扁額あり。隠元筆。又本尊の上に大威徳の三字を扁す。両柱の聯に見相傾身敢保未忘法相、揮金布地自然偏界黄金の数字あり。又堂中左右に武陵界上重開弘福禅林人々慶喜、牛首山中新建大雄寶殿水水騰依、支那沙門激高泉敬題の聯あり。本尊の左右聯に漢天日月久晦祖燈重煜□、旱地雲雷普霑林木盡華栄、黄檗木庵書とあり。
禅堂。選佛場の扁額を掛く。内に観音地蔵を安す。藤村忠円といへるか作、外に開山鉄牛の木像二世鉄関の画像を板に彫れるあり。聯あり正字桑域初日真見檗峯嫡孫当山第三代嗣法門人程瑞鳳拝額とあり。慈観堂の三字を扁す鉄牛の書なり。
斎堂。今は蹟のみなり。
開山堂。これも今は廃せり。
鐘楼。鉄牛の筆鐘楼と扁せり。貞享五年鐘銘あり左にのす。(中略)
経蔵。聖相の二字を扁す。思蘆舎那教蔵円満功徳薩婆若海疑礼了悟佛心の聯あり。
大神宮八幡春日合社。
八僧稲荷社。
箱根権現浅間熊野合社。
建凌岱墓碑。境内墓所にあり。建部綾足字孟喬寒葉斎と称す。俳諧歌の古事記に片歌とみえたるを考へ唱へ、其道に於ては珠に賞せられしなり。後上京して花山宮に従ひ遊へる頃片歌道主の号を与へられ、安永甲午の年三月十八日五十余にて死せり。此碑は翌乙未の年門人建由明なと称せるもの建し由、加藤千蔭仮名にて記したり。此余境内に荻生茂卿の門弟林義寛井上喬卿等の碑石あり。(新編武蔵風土記稿より)

弘福寺布袋尊

黄檗宗弘福寺は、三百余年の昔、名僧鉄牛禅師によって創建された。黄檗宗は禅宗の中でも中国色の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置されたのも、実はその黄檗宗の性格にかかわるのである。
布袋尊は唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は尽きるころがなかった。その無欲恬淡として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭した有徳として、世人の尊崇を受け、隅田川七福神としても敬われたのである。


弘福寺所蔵の文化財

  • 弘福寺大雄宝殿(墨田区登録文化財)
  • 貞享5年銘梵鐘(墨田区登録文化財)
  • 池田冠山墓(墨田区登録文化財)
  • 咳の爺婆尊
  • 建部綾足の墓碑

池田冠山の碑

江戸時代後期の大名で因幡若桜藩主です。儒学者としても地理物理学者としても著名です。明和4年(1767)に生まれ、幼名を鉄之丞、恒太郎、のちに定常と名乗りました。天明5年(1785)に家督を継いで藩主となり、従五位下縫殿頭に叙任しました。学問は佐藤一斉について学び、古今和漢の書、地理仏典にいたるまで多くの書に目を通し、また諸芸にも通じていました。訪問する物の貴賎に関係なく接し、幅広い交流をもちました。
享和元年(1801)健康を害して藩主の座を退いたのちはもっぱら著述を楽しみとし、晩年、冠山道人と号しました。佐伯候毛利高標、仁正寺候市橋長昭とならんで文学三候と称されましたが、天保四年(1833)七月九日、67歳で没し、当寺に葬られました。著書には「浅草寺志」「江戸黄檗善刹記」「墨水源流」など数多くあります。(平成15年3月 墨田区教育委員会)

翁媼尊

この石像は、風外禅師(名は慧薫、寛永年間の人)が、相州真鶴の山中の洞穴に於いて求道して居た所、禅師が父母に孝養を尽くせぬをいたみ、同地の岩石を以って自らが刻んだ父母の像です、禅師は之を洞穴に安置し恰も父母在すが如く日夜孝養怠らなかったといわれております。小田原城主当山開基稲葉正則公が、その石像の温容と禅師の至情に感じ、その放置されると憐れみ城内に供養していましたが、たまたま同公移封の為小田原を去るにあたり、当寺に預けて祀らしめたものです。尚、古くよりこの石像は咳の爺婆尊と称せられ、口中に病のあるものは爺に、咳を病むものは婆に祈願し、全快を得た折には煎り豆と番茶を添えてその礼に供養するという風習が伝わっております

弘福寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿