隅田山多聞寺|隅田川七福神の毘沙門天
多聞寺の概要
真言宗智山派寺院の多聞寺は、隅田山吉祥院と号します。創建年代は不詳ですが、天徳年間(957-960)には現隅田川神社付近にあり、大鏡山明王院隅田寺と称していたといいます。天正年間(1573-1591)に鑁海上人が本尊を毘沙門天として隅田山吉祥院多聞寺と改称したと伝えられます。本尊は、隅田川七福神の一つにもなっている毘沙門天です。茅葺の山門は区内最古の現存建造物で墨田区の指定文化財です。その他創建にまつわる妖怪狸を供養した狸塚や、東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨など多くの文化財を有しています。南葛八十八ヶ所霊場79番、荒川辺八十八ヶ所霊場65番、荒綾八十八ヶ所霊場5番、新葛西三十三所観音霊場16番です。
山号 | 隅田山 |
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院号 | 吉祥院 |
寺号 | 多聞寺 |
住所 | 墨田区墨田5-31-13 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 隅田川七福神の毘沙門天、南葛八十八ヶ所霊場79番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場65番札所、荒綾八十八ヶ所霊場5番札所、隅田川神社の旧別当 |
多聞寺の縁起
多門寺の創建年代は不詳ですが、天徳年間(957-960)には現隅田川神社付近にあり、大鏡山明王院隅田寺と称していたといいます。天正年間(1573-1591)に鑁海上人が本尊を毘沙門天として隅田山吉祥院多聞寺と改称したと伝えられます。江戸期には隅田川神社の別当寺でした。
新編武蔵風土記稿による多聞寺の縁起
多聞寺
新義真言宗、寺嶋村蓮花寺末、隅田山吉祥院と号す。慶長11年起立す。法流開山円実宝暦5年正月2日寂す。本尊毘沙門は弘法大師の作にて長1尺2寸、脇士十一面観音及不動を置。
五智堂。
鐘楼、延享3年造立の鐘を掛。
香取社、稲荷社。(新編武蔵風土記稿より)
すみだの史跡文化財による多聞寺の縁起
天徳年間(957-960)には墨田千軒宿、今の隅田川神社付近にあって、大鏡山明王院隅田寺と称え、本尊は不動明王でした。降って天正年間(1573-1591)には41代鑁海上人が、ある夜、夢に毘沙門天(多聞天)尊像を感得して以来、毘沙門天を本尊とし、隅田山吉祥院多聞寺と改称したといいます。なお、明治維新までは隅田川神社の別当寺でした。
多門寺は区内の最北端にあり、関東大震災、戦災ともに遭わなかったので、昔日の面影を残す数少ない寺院となっています。
明治45年には、永信講として「地蔵尊密言流念仏」が発足しましたが、戦時中に中断したのち昭和26年に復活し、毎月24日に催されています。
また、境内の狸塚の前には弥陀三尊の板碑(年紀不明)があり、他に弥陀一尊(花瓶)のものが保管されています。(すみだの史跡文化財めぐりより)
狸塚のいわれ
むかし、江戸時代が開かれる前の頃、今の多聞寺のあたりは隅田川の河原の中で、草木が生い茂るとても寂しいところでした。
そこには、大きな池があり、ひとたび見るだけで気を失い、何ヶ月も寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいました。また牛松と呼ばれる、おとなが五人でかかえるほどの松の大木がありました。この松の根元には大きな穴があり、妖怪狸がすみつけ人々をたぶらかしていたのです。
そこで、はんかい和尚と村人たちは、人も寄りつくこともできないような、恐ろしいこの場所に、お堂を建てて妖怪たちを追い払うことにしました。
まず、大きな松を切り倒し、穴をふさぎ、それから池を埋めてしまいました。
するとどうでしょう、大地がとどろき、空から土が降ってきたり、いたずらはひどくなるばかりです。
ある晩のことでした、和尚さんの夢の中に、天までとどくような大入道があらわれて、「おい、ここはわしのものじゃ。さっさと出て行け! さもないと、村人たちを食ってしまうぞ。」とおどかすのでした。
和尚さんはびっくりして、一心にご本尊さまを拝みました。
やがて、ご本尊毘沙門天のお使いが現れて、妖怪狸に話しました。
「おまえの悪さは、いつかおまえをほろぼすことになるぞ。」
次の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。
これを見つけた和尚さんと村人たちは、狸がかわいそうになりました。
そして、切り倒してしまった松の木や、埋めてしまった池への供養のためにもと、塚を築いたのでした。
多聞寺所蔵の文化財
- 多聞寺山門(墨田区指定文化財)
- 寛文4年銘庚申阿弥陀如来石像(墨田区指定文化財)
- 多聞寺の石造六地蔵菩薩坐像(墨田区登録文化財)
多聞寺山門
多聞寺の山門は江戸時代中期に造られた区内最古の建造物です。
切妻造の四脚門で、現在では珍しくなった茅葺の屋根を持ちます。
全体的には簡素な和様の造りで、控柱などに禅宗様の手法も見られます。虹梁・木鼻に刻まれた線の太さや深さ、素朴な文様は十八世紀を下らない建造を感じさせます。
慶安二年(1649)に建立された山門ですが、その後焼失しました。過去帳には「享和三亥年二月酉ノ上刻出火、本堂、鐘楼、五智堂、庫裡、焼失四棟也、表門は不焼」とあり、この火災で焼失を免れたことから、遅くとも享和三年には再建されていたことになります。
墨田区は震災や戦災で多くの木造建築が失われてきました。こうした中で、多聞寺山門が現存することは、貴重であり、周囲の意匠との関連や相違を検討するうえでも重要な建造物と言えます(平成17年3月 墨田区教育委員会)
六地蔵坐像
この六地蔵像は総高150センチで、いずれも安山岩の四石からなっており、地面から一、二段目の石は方形、三段目は蓮台、その上に、それぞれ60センチの丸彫り地蔵坐像がのっている。像容は向かって右から持ち物不明の坐像が二体、両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋を持つ坐像、持ち物不明の半跏像、合掌している坐像の順に並んでいます。
欠損や修復の跡が見られますが、僧覚誉理慶(利慶)が領主となり、七年間にわたって隅田村内の地蔵講結衆の二世安楽を願って造立されたことが刻銘から読み取ることができます
隅田村地蔵講中の数年にわたる作業行為を知り得る貴重な資料といえます
六地蔵の製作年代は右から、正徳三年(1713)二月吉祥日、同四年八月吉祥日、同三年八月吉祥日、同二年八月吉祥日、享保元年(1716)九月吉祥日、同三年十月日と刻まれています(平成4年3月 墨田区)
多聞寺の周辺図