法恩寺|墨田区太平にある日蓮宗寺院

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法恩寺|江戸城鎮護の祈願所として創建、江戸十祖師

法恩寺の概要

日蓮宗寺院の法恩寺は平河山と号します。法恩寺は、道灌公長禄2年(1458)江戸城築城にあたり丑寅の方に城内鎮護の祈願所として本住院を建立、太田資高の代に法恩寺と改称、太田資宗が浜松藩主となるまで七代にわたり菩提寺となっていたといいます徳川家康の江戸入府により、神田柳原、谷中清水町にと移され、元禄2年(1689)当地へ移転、盛時には塔頭を20ヶ寺を擁し、「鬼平犯科帳」にも登場する著名寺院です。また、現住所の太平は、太田道灌と平河山法恩寺の頭文字から名づけられています。江戸時代には、谷中宗林寺、浅草幸龍寺とともに京本国寺末触頭を勤め塔中二十ヵ寺、末寺十一ヵ寺を擁していました。参道沿いにある、法泉院陽運院千栄院善行院は当寺の子院です。

法恩寺
法恩寺の概要
山号 平河山
院号 -
寺号 法恩寺
住所 墨田区太平1-26-16
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 墓苑募集中、江戸十祖師、江戸触頭



法恩寺の縁起

法恩寺は、道灌公長禄2年(1458)江戸城築城にあたり丑寅の方に城内鎮護の祈願所として本住院を建立、太田資高の代に法恩寺と改称、太田資宗が浜松藩主となるまで七代にわたり菩提寺となっていたといいます徳川家康の江戸入府により、神田柳原、谷中清水町にと移され、元禄2年(1689)当地へ移転、盛時には塔頭を20ヶ寺を擁し、「鬼平犯科帳」にも登場する著名寺院です。

境内掲示による法恩寺の縁起

日蓮宗平河山法恩寺
寺伝によれば、古来法恩寺は平河村(後の江戸城平川口付近にあった村)にあった小さな草庵で、長禄元年(一四五七)に太田道灌の助成により一寺造営を果たしました。当初は道灌が帰依した学徳兼備の住職、日住上人の院号をとって本住院と号しましたが大永四年(一五二四)に法恩寺に改めたと伝えられています。寺号は道灌の子資高が父の追善供養のため堂塔を再建したのが改号の機縁になったとされています。そして、慶長十年(一六〇五)頃に神田柳原へ移転し、慶安二年(一六四九)頃には再び所在を変えて谷中の清水坂に落ち着きました。また、元禄二年(一六八九)閏正月二日には幕府の命により当地へ移転し、以後は寺内に二十もの塔頭を擁する寺院として栄えることになりました。天保七年(一八三六)に出版された「江戸名所図会」にはそうした当寺の景観が見え、往時の盛栄が偲ばれます。(墨田区教育委員会・法恩寺第五十六世日元代掲示より)

境内掲示による法恩寺の縁起

長禄二(一四五八)年、太田道灌が江戸城築城にあたり、丑寅の方角である江戸平河に城内鎮護の祈願所を設けたことに始まるとされます。開山は本住院日住上人です。大永四(一五二四)年、道灌の孫の資高が父資康追善のために堂塔を再建、資康の法名をもって本住院から法恩寺と改めました。家康入府後は、数回の移転を重ね、元禄元(一六八八)年に現在の地に定められました。
鬼平犯科帳では、数作品に登場します。「本所・桜屋敷」には平蔵と左馬之助が門前の茶店「ひしや」で湯豆腐と熱燗で二十余年ぶりに旧交を暖める場面が登場します。「尻毛の長右衛門」では、冒頭に寺裏手の木立の中で布目の半太郎と引き込み役のおすみが逢引する様子が描かれています。(墨田区掲示より)

「墨田区史」による法恩寺の縁起

法恩寺(太平一丁目二六番一六号)
長禄二年(一四五八)江戸平河(千代田区)の地に創建されたと伝える。それまでは小庵に過ぎなかったものを、当時の江戸城主太田道灌が日住上人に助力して一寺を建立し、本住院と号したという。その後、大永四年(一五二四)に至って道灌の孫に当たる太田資高が、父資康追善のために堂舎を造営し、寺号を平河山法思寺と改めた。更に、徳川家康の江戸入府以来、数度の移転を経て元禄元年(一六八八)に現在地に寺地を定めたものである。日蓮宗京都本圀寺末で、本尊として安置する日蓮上人木像は日法上人の作と伝えられている。江戸時代には一二軒の塔頭があったが、千栄院陽運院善行院法泉院が寺院として現存している。
境内には、太田道灌供養墓碑をはじめ、開都五百年記念太田道灌公碑、寛保二年(一七四二)建立の平川清水大明神石柱、文政十二年(一八二九)本所竪川の講中による地震圧死火難水難剣難横死精霊供養塔などがある。(「墨田区史」より)


法恩寺所蔵の文化財

  • 太田道灌家供養塔(墨田区登録文化財)
  • 太田氏七代供養塔(墨田区登録文化財)
  • 旗本太田資同墓碑(墨田区登録文化財)
  • 貞享2年銘水鉢
  • 天保12年銘無縁塔
  • 地震圧死火難水難剣難横死精霊供養塔
  • 水間沾徳の墓

太田道灌家供養塔

この供養塔は、法恩寺墓地の中央奥に石組で囲まれた歴代住職の供養塔と並び、一段高く安置されています。 五輪塔形式で各輪に妙法蓮華経の文字、地輪正面に道灌と父・資清の戒名、両側面に道灌以降五代の当主の戒名、裏面にはそれぞれの没年月日が刻まれていますが、現在は肉眼で判読するのは困難です。
総高は201センチメートルです。空輪と風輪は後補と思われ、火輪の軒が厚く水輪、地輪とほぼ同じ幅であることから17世紀後半の製作と考えられます。
法恩寺は、太田道灌が江戸平河に創建した寺院で、当時は本住院と号しましたが、大永4年(1524年)に平河山法恩寺と寺号を改めました。後、元禄元年(1688年)に本所の現在地に寺地が定まりました。
『新撰東京名所図絵』(明治40年)には、寺僧が記念のために、この供養塔を建てたことが記されています。(墨田区教育委員会掲示より)

太田氏七代供養塔

太田氏七代供養塔は、法恩寺が設けたものと考えられています。既存の五輪塔を転用したと思われるもので、地輪に太田資清、資長(道灌)、資康、資高、康資、重正、資宗(初代浜松藩主)ら名族太田氏七代の法号と忌日が刻まれています。太田氏歴代のうち、とくに資清から資宗まで七名の法号を刻む点が、次のような寺伝との関連を想わせます。
太田氏は元来、道灌開基の法恩寺を菩提寺とした。しかし、北条氏に仇を返すが否かをめぐって住持と対立した康資が寺を変え、本行寺(現荒川区)を菩提寺とした。だが後に康資の怒りも晴れ、以後、資宗の代まで道灌霊像への参詣が続いた(『寺誌取調書上』)。
法恩寺は、太田道灌開基と言われています。太田氏七代供養塔は、その法恩寺が太田氏との関係継続の歴史を意識して設けた記念物であったと思われます。平成十二年三月二十三日に墨田区登録文化財となりました。(墨田区教育委員会掲示より)

太田道灌家供養塔

旗本太田資同墓碑は、家祖政資の代より法恩寺を葬地とした旗本太田氏の五代目の当主、資同の墓碑です。
一説によれば、太田氏は元来市井の医家で、初代政資の姉が徳川家宣の子(家千代)を産んだことから旗本にとり立てられました(知行高三千石)。資同は、大名太田資宗(初代浜松藩主)の家系から分かれた格上の旗本、太田資倍(知行高五千石)の実子(二男)でしたが、医家から武家に転じたこの新興の旗本、太田氏に養子入りして家督を相続しました。
家譜によれば、資同は、新興の旗本太田氏において初めて布衣以上の地位(式日に無紋の狩衣を着用することが許され、旗本の立身の証しとされた身分)を得た人物で、四代にわたる事実上の無役の状態を脱するうえで画期的な世代となったことが知られます。
資同の墓碑には、彼の法号と忌日、そして彼が生前に書き著した遺言が刻まれています。遺言は、公儀への滅私的奉仕を旨とする武家の心得を説くもので、近世武家の倫理をよく示しています。
資同の墓碑は、旗本太田氏歴代の墓碑の中で唯一残る稀少なものであり、銘文には歴史資料としての意義も認められます。このため平成三十年三月二十二日に墨田区登録文化財となりました。(墨田区教育委員会掲示より)

法恩寺のもと末寺


法恩寺の塔頭


法恩寺の周辺図