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銀杏岡八幡神社|台東区浅草橋の神社

銀杏岡八幡神社の概要

銀杏岡八幡神社は、台東区浅草橋にある八幡神社です。銀杏岡八幡神社の創建年代は不詳ですが、源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、小高い丘だった当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、康平5年(1062)に当社を創建したと伝えられます。江戸時代に入り、福井藩松平家屋敷地となり、松平家の邸内社となったものの、享保十年(1725)公収され町内(福井町)の産土神となったといいます。明治維新後には村社に列格していました。

銀杏岡八幡神社
銀杏岡八幡神社の概要
社号 銀杏岡八幡神社
祭神 誉田別命
相殿 武内宿祢命
境内社 此葉稲荷神社
住所 台東区浅草橋1-29-11
備考 旧村社



銀杏岡八幡神社の由緒

銀杏岡八幡神社の創建年代は不詳ですが、源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、小高い丘だった当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、康平5年(1062)に当社を創建したと伝えられます。江戸時代に入り、福井藩松平家屋敷地となり、松平家の邸内社となったものの、享保十年(1725)公収され町内(福井町)の産土神となったといいます。明治維新後には村社に列格していました。

境内石碑による銀杏岡八幡神社の由緒

後冷泉天皇の御代
源頼義公、八幡太郎義家公は、朝廷の命に依り奥州の安倍貞任、宗任を平定する為に奥州街道を下向の砌当地に至りました。当時このところは小高い丘で隅田川の流れを一望出来る絶景の地であった。一休止のため陣をとりました時、川上より流れくるものを拾い上げてみますと銀杏の枝でありました。その枝をこの丘の上に差し立て都の氏神を遥かに拝み「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と祈願し旅立ち安倍一族を平定の後、再びこの地に帰り至りました時丘の上に差した銀杏の枝は大きく繁茂しておりましたので、義家公は御神恩に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請いたしましたのが、康平五年(1062)当社の始と伝へられています。そしてこの銀杏は大樹となりまして、隅田川を上り下りする舟や街道を行き交う人々のよい目標となりましたが、時代は下り徳川家江戸入府後、元和四年(1618)この地は福井藩松平家の屋敷となり、邸内社として尊崇されてまいりましたが、享保十年(1725)この地が公収され屋敷の跡地は町屋となり同十五年、時の町奉行大岡越前守様に依り福井町と命名され願いにより当社は地域の産土神として崇敬されてまいりました。大銀杏は延享二年(1745)九月十四日台風のため中程より折れましたが、高さ六メートル位を残して繁茂しておりましたが、文化三年(1806)江戸大火の折焼失しました。
御祭礼は、江戸時代八月十五日に執り行われていましたが、明治の中頃より六月十五日にかわり、現在は原則として六月第一土曜、日曜に執り行っています。(境内石碑より)

東京都神社名鑑による銀杏岡八幡神社の由緒

後冷泉天皇の御代、源頼義公、八幡太郎義家公は、朝廷の命により奥州の安倍一族を平定するために、奥州街道を下向、当地に至り、当時このところは小高い丘で隅田川の流れを一望できる絶景の場所であった。一休止のため陣をとった時、川上より流れくるものを拾い上げてみると銀杏の枝であった。義家公はその枝を丘の上にさし立て、「朝敵退治のあかつきには枝葉栄うべし」と祈願し、阿倍一族平定の後、再びこの地に帰り到った時、丘の上にさした銀杏は大きく繁茂しておったので、義家公は御神恩に感謝し、太刀一振を捧げ、八幡宮を勧請したのが、康平五年(一〇六二)で当社のはじめと伝えられている。そしてこの銀杏は大樹となり、隅田川を上り下りする舟人や、街道を行き交う人びとのよい目標しとなった。時代は下り徳川家江戸入府後、元和四年(一六一八)この地は福井藩松平家の屋敷となり、社は邸内社として尊崇されてきたが、享保十年(一七二五)この地が公取され、屋敷の跡地は町家となり、福井町と名ずけられ、当社は町の産土神として崇敬されてきた。なお大銀杏は延享二年(一七四五)九月十四日の台風のため中ほどより折れ、高さ六メートルくらいを残して繁茂していたが文化三年(一八〇六)江戸大火の折、焼失してしまった。(東京都神社名鑑より)


銀杏岡八幡神社の周辺図


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