源空寺|台東区東上野にある浄土宗寺院

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五台山源空寺|台東区東上野にある浄土宗寺院

源空寺の概要

浄土宗寺院の源空寺は、五台山文殊院と号します。源空寺は、天正18年(1590)覚蓮社円誉道阿霊門和尚が湯島に創建、和尚は、木食草衣の身となり専修念仏に励んでいたところ、幕府の耳に入り、幕命により慶長9年(1604)源空寺と号したといいます。寛永11年(1634)には徳川家光に呼ばれて江戸城に登城、家光より洪鐘の寄進を受けています。明暦3年(1657)の大火で類焼し、当地へ移転しました。

源空寺
源空寺の概要
山号 五台山
院号 文殊院
寺号 源空寺
住所 台東区東上野6-19-2
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



源空寺の縁起

源空寺は、天正18年(1590)覚蓮社円誉道阿霊門和尚が湯島に創建、和尚は、木食草衣の身となり専修念仏に励んでいたところ、幕府の耳に入り、幕命により慶長9年(1604)源空寺と号したといいます。寛永11年(1634)には徳川家光に呼ばれて江戸城に登城、家光より洪鐘の寄進を受けています。明暦3年(1657)の大火で類焼し、当地へ移転しました。

「淺草區史」による源空寺の縁起

源空寺
北清島町にあり。五臺山文殊院と號し。京都智恩院の末寺なり。慶長九中年圓譽靈門上人之れを湯島に創立し號て源空寺と稱す。(圓譽夢む適々津戸三郎の末裔伏見某来りて祖先傳来の源空上人像を贈る、故に名つくと。)明暦回禄の後今の地に移る。寛永十三年将軍家光洪鐘(龍頭以下高さ六尺九寸徑四尺二寸厚四寸六分)を賜ふ。刻銘左の如し。
大相國一品徳蓮社宗譽道和大居士
台徳院殿一品大相公
淳和弉學兩院別當氏長者正二位内大臣征夷大将軍源家光公
于時鐘醫十三丙子年九月二十八日
鑄師大工推名勝十郎藤原義定
大日本國武州江戸豊島郡湯島五臺山源空寺敬白願主當寺開山覺蓮社圓譽靈門道阿
當寺門前町屋は、元禄十一年九月災後門西に開き、寶暦十三年又北東に開設せりといふ。
今寺什に圓光大師の眞影あり。源頼朝の家人、津戸三郎菅原爲守入道尊願法子持念の尊像なり。其の来由を尋ぬるに建久六年南都東大寺供養のために賴朝の幕下上洛の事あり。爲守時に年三十三にて供奉したりけるが、三月四入洛し、同十一日法然上人の菴室に参じ、合戦數度の罪を懺悔し、後本國に歸り屡々消息をもて浄土の安心を上人に決し、在俗の形ながら法名をつけ、戒をうけ、袈裟を賜うべきよし上人に望みしに上人その志を哀みて之を遂げしめ、法名を尊願と給はりしが建保七年正月遂に出家をとげ、上人往生後、師恩を報ぜんために上人の眞影を安置し、常随給仕の思ひをなして念佛に日を送り、仁治三年十一月十五日大往生を遂げたり。然るに當寺開山圓譽靈門上人は、天正十年會津光徳寺高月和尚を師として剃髪授戒し、後に幡随意上人を師として附法傳脈し、浄土の心行を決し、身を雲水にまかせ、神を浄土にすまし、木食草衣の身となりて専修念佛を勵み、江戸神田の邊に草廬を營む。徳行並に精修練行の名譽は幕府に聴へ次いて幕府より神田湯島に於て一町四方の寺地を賜ふ。其の後圓譽津戸三郎爲守入道の常随給仕せし、法然上人の眞影を得と。是れ其の来由たり。次いで台命により源空寺と號す。實に慶長九年なり。其の後寛永十一年大猷院殿開山圓譽を御城に召されて君寵のあまり洪鐘を寄附して寺鎮となし、尚家康・秀忠・家光三代一補の尊影御筆を得たり。次いで明暦三年湯島より今の地に移轉したり。(「淺草區史」より)

御府内寺社備考による源空寺の縁起

京都知恩院末 浅草不唱小名 
五台山文殊院源空寺 境内拝領地3960坪内門前町アリ。
天正18年、開山円誉上人御当地湯島村に草庵を結ひて一食不臥にして念仏弘通在しに、都鄙老若帰依する事夥しく、此よし神君様達御聞、御城ヘ召出、御目見被仰付。其後度々被召出、浄土宗安心起行之趣言上仕候趣ニ御座候。慶長9年円誉端夢を感し、津戸三郎為守法名尊願(尊顔は宗祖源空上人の弟子なり)源空上人之像を護持せしに、三郎末裔之もの持参して円誉ニ譲り与ふ。津戸三郎尊顔之事実ハ勅修御伝28巻ニ出ル、津戸末裔之事八王子在ニ在リ。当時番町の伏見氏是也。翌日御城ヘ被召出、御目見之節其旨言上仕候処、不思議ニ被為思召、一寺建立可仕旨被仰付。即湯島村において前書之通寺地拝領仕候。其時源空上人之寺なればとて源空寺と寺号被下置候。右故他国より引来り候にても無之、御当地在来之旧寺に而も無之。
御当家様御入国最初御開創之寺ニ御座候。天正18年湯島村に在寺。明暦3年正月18日御当地大火之節類焼仕候ニ付、寺地御用地ニ被召上、当所ヘ転地被仰付。旧地ハ今湯島5町目円福寺之向角、当時坂本屋何某之辺と老人之申伝ニ御座候。
開山覚蓮社円誉道阿霊門和尚、寛永19年5月18日行年73寂。尤円誉上人生国奥州米沢之産、姓ハ佐竹一族、白石志摩守之末孫にて小石川伝通院開山了誉聖国上人と同姓也。剃髪受戒ハ同国会津光徳寺住高月和尚也。嗣法ハ幡随意上人にて、一生一食不臥にして称名の外他事なく、堅固の行状自然と達上聞ニ、慶長9年被召出、神君様 台徳院様 御両君ヘ御目見、即寺号寺地共拝領。寛永9年 台徳院様御他界之節、格別之御沙汰を以って御葬式御法事等ヘ出勤仕候。寛永9年従。大猷院様円誉被召出候而御目見之上御気色宜、何等可相願義は無之哉との上意ニ付、乍恐円誉申上候ニは御当城永久御繁栄を奉願外ハ別ニ可奉願儀無之与申上由。依之増々御気色宜旨、当時旧記ニ相見候。
中興二世称蓮社専誉上人直尓霊応和尚、寛永19年当寺住職。明暦3年当所転地拝領、諸堂建立。其後筑紫善導寺ヘ転住。寛文元年11月3日寂。
後中興11世宣蓮社暢誉上人愚寂天周和尚、安永2年増上寺行事席住職ニ而して胴年本堂諸堂不残再建、当寺現在之諸堂也。寛政元年在寺7年ニ而寂。(御府内寺社備考より)


源空寺所蔵の文化財

  • 伊能忠敬の墓(日本国史跡)
  • 高橋至時の墓(日本国史跡)
  • 谷文晁の墓(東京都旧跡)
  • 幡随院長兵衛の墓(東京都旧跡)
  • 銅鐘(台東区登載化財)
  • 高橋景保の墓

伊能忠敬は、下総国佐原の名主・酒造家に生まれ、高橋至時に天文学・測量学を学び、寛政12年(1800)から全国各地を測量、「大日本沿海與地全図」を完成させました。高橋至時は、高橋景保の父で、寛政改歴の中心となった天文方です。高橋景保は、天文学者・洋学者で、天文方・書物奉行を勤めましたが、文政11年(1828)シーボルトに日本地図を贈ったことが発覚し、翌年獄死しました(シーボルト事件)。また、幡随院長兵衛は、町奴の頭目として、旗本奴の横暴に立ち向かって亡くなり、江戸っ子のヒーローとして歌舞伎狂言にも取り上げられています。谷文晁は、下谷根岸の生まれで、狩野派や南画・洋画などに学び、文人画を大成した江戸画壇の重鎮です。

銅鐘

源空寺の銅鐘は、総高が222cm、口径が130cmに及ぶ大型のもので、均整のとれた堂々とした形態です。寛永13年(1636)に源空寺初代住職の道阿霊門上人が、3代将軍徳川家光の要請をうけ徳川家康・秀忠の菩提を弔うために鋳造させたもので、作者は椎名勝十郎義定という人物です。
銘文の中にある「大相国一品徳蓮社崇誉道和大居士」は徳川家康のこと。「大相国一品」は死後に朝廷より贈られた官位、「徳蓮社~」は徳川家の宗旨浄土宗の戒名、「台徳院殿一品大相国公」は秀忠の戒名の一部と官位です。また、家光については「淳和・奨学両院別当、氏長者、正二位、内大臣、征夷大将軍、源家光公」とあります。「氏長者」は源氏の統轄者であることを示し、その他はすべて朝廷から任ぜられた位や官職です。江戸時代の代々の将軍は、正式にはこのような長い肩書をもっていました。
作者の椎名氏は徳川将軍家の御用鋳物師を務めた家柄。たとえば初代吉次は元和3年(1617)に上野寛永寺清水堂の鰐口、2代吉綱は慶安4年(1651)に上野東照宮の銅灯籠など、徳川家にゆかりの深い鋳物を製作しています。この銅鐘も徳川将軍家と関わりのあることから、作者「義定」も御用鋳物師椎名氏の一族であると考えられます。


源空寺の周辺図


参考資料

  • 「淺草區史」
  • 御府内寺社備考