保元寺|台東区橋場にある浄土宗寺院

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帰命山保元寺|宝亀元年(770年)に創建

保元寺の概要

浄土宗寺院の保元寺は、帰命山薬王無量院と号し、奈良時代の宝亀元年(770年)に当地に創建したと伝えられています。法相宗、真言宗など諸宗派を経て、増上寺開山酉誉上人弟子惣誉酉公大和尚により浄土宗となりました。江戸期に保元寺を法源寺としたものの、大正時代に保元寺と寺号を戻し、現在に至ります。

保元寺
保元寺の概要
山号 帰命山
院号 薬王無量院
寺号 保元寺
住所 台東区橋場1-4-7
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



保元寺の縁起

保元寺は、奈良時代の宝亀元年(770年)に当地に創建したと伝えられています。法相宗、真言宗など諸宗派を経て、増上寺開山酉誉上人弟子惣誉酉公大和尚により浄土宗となりました。江戸期に保元寺を法源寺としたものの、大正時代に保元寺と寺号を戻し、現在に至ります。

境内石碑による保元寺の縁起

保元寺は奈良時代の宝亀元年(770年)に此の地に創建された都内でも数少ない古刹(古寺)である。当時都鳥鳴く隅田川に面した此の地は砂尾の石浜と云われ、保元寺も砂尾の石浜道場と呼ばれていた。
とき移り平安時代の保元元年(1156年)後白河天皇の勅許を得てときの年号を寺名として保元寺と改称した。嘉元元年(1305年)には時宗の宗祖一遍上人もしばし保元寺にとまり修行している。
南北朝時代足利尊氏が新田義興と此の地で合戦し敗走したと太平記巻31に「石浜の合戦」として記されている。
その後、幾度もの戦いに保元寺はまったく荒廃し、ただ淒涼たる武蔵野の保元寺の歴史を惜しみ、芝の増上寺初代法主、西誉聖聡上人が弟子の聡誉西仰に保元寺を再興させた。この時から保元寺は浄土宗の寺となったが、一時は法源寺と用字を変えたときもあった。
境内には延文2年(1070)に亡じた鎌倉権太夫景通の古塔、木曽義仲とのいくさに白髪を黒く染めて奮戦した斉藤実盛の石仏、江戸時代の蘭学者で画師谷文晁の師でもあった日本最初の洋風画家の北山寒厳の墓と古碑、江戸幕府の医師で日本最初の天然痘予防接種をした桒田立斎の墓と古碑などがある。また歴代住職の古塔、寛文の頃より元禄その他の年号を刻された石仏など多数が現存する。
保元寺は浄土宗別格であり正しくは帰命山薬王無量院保元寺と称する。
此の碑は、一代の書聖栖原家の志により建立した。先生は芝増上寺の林祖洞師の高弟にして、生涯一万冊の各蹟を発願し以来60年幾多の困難に耐え、遂に成満しこれを駒澤大学図書館に寄贈された。
先生は此の浄業大成の後昭和47年5月5日永眠され葬られた。行年80歳

御府内寺社備考による保元寺の縁起

江戸芝増上寺末 浅草橋場 
帰命山無量寿院法源寺、境内2204坪内拝領地1440坪年貢地764坪。
宝亀元年起立。
開山智海法印。人王45代、聖武天皇御宇神亀5年武州豊島郡ニ生ル。俗称不知。14歳ニして出家剃髪ス。鑑真和尚ニ論法法相学ス。後真言を学、別而念仏を修ス。人王51代、平城天皇御宇大同元年3月14日ニ寂ス。
第2代権大僧都了海、天長7年4月15日寂ス。
第3代権大僧都恵海、斎衛元年4月15日寂ス。此後法相三論華厳天台仏心律家之衆僧、一遍上人時宗遊行之門葉、入替リ住ス。年月不知。更に増上寺開山酉誉上人弟子惣誉酉公大和尚、浄土白幡流儀之宗旨ニ改、以来伝之相続。
中興団誉聞諦和尚、惣誉上人ヨリ当住迄22代相続。寺号保元元年保元寺与唱来候。其後東誉念宗代法源寺与書改メ候。古同所神明之後ニ寺地有之候由。長禄2年今之地江引移候由ニ御座候。(御府内寺社備考より)


保元寺所蔵の文化財

  • 海月光大明菩薩・金銅立像(台東区登載文化財)

海月光大明菩薩・金銅立像

この仏像は、総高45.1cm。台座に銘文が刻まれていて、それにより朝鮮半島にあった高麗という国で、969年か、あるいは1029年に造られたものであることがわかります。 高麗国は、918年から1392年まで存在した朝鮮半島の王朝国家です。
仏教を大いに奨励したため、典籍や仏像等、さまざまなジャンルの仏教文化が盛んとなり、この仏像もそうした高麗仏教文化の遺物のひとつです。
さて、この像は何を表したものなのでしょうか。頭に載せた冠のほか、各所に飾りを付け、右手で蓮華を持つ姿は観音菩薩に似ていますが、銘文には「海月光大明菩薩」という、あまり聞き慣れない名が刻んであります。この「海月光大明菩薩」は、『大方広仏華厳経』という経典に登場する菩薩ですので、この仏像は『大方広仏華厳経』をもとに制作されたもののようです。しかし、観音菩薩や地蔵菩薩のように明瞭な個性をもつのではなく、多くの菩薩の中のひとつという存在だったようで、文化財としての名称は単に「菩薩立像」といたしました。
ところで、『大方広仏華厳経』は略して『華厳経』といい、中国・朝鮮半島はもちろん、日本にも伝来しました。たとえば奈良の東大寺は、この経典を重んじる華厳宗という宗派に属し、有名な大仏もこの経典にもとづいて造像されたもので、その意味では東大寺大仏と本像は遠い親戚のような関係といえるかもしれません。
本像は高麗仏としての美しさとともに、『華厳経』にもとづく仏像としても貴重な遺品です。


保元寺の周辺図