金龍寺|台東区寿にある臨済宗妙心寺派寺院

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白雲山金龍寺|都指定旧跡荷田在満墓所

金龍寺の概要

臨済宗妙心寺派寺院の金龍寺は、白雲山と号します。金龍寺は、徳川家康の長女奥平侯信昌之室盛徳夫人が開基となり、南伝宗涌禅師を開山に迎えて、慶長16年八丁堀に創建、寛永12年当地へ移転したといいます。東京都指定旧跡になっている荷田在満墓があります。

金龍寺
金龍寺の概要
山号 白雲山
院号 -
寺号 金龍寺
住所 台東区寿2-10-4
宗派 臨済宗妙心寺派
葬儀・墓地 -
備考 荷田在満墓所



金龍寺の縁起

金龍寺は、徳川家康の長女奥平侯信昌之室盛徳夫人が開基となり、南伝宗涌禅師(国師第八世大用弘照禅師)を開山に迎えて、慶長16年八丁堀に創建、寛永12年当地へ移転したといいます。

御府内寺社備考による金龍寺の縁起

京都花園妙心寺末
白雲山金龍寺 境内拝領地二千四百四拾九坪門前町有之
浅草八町堀
慶長十六辛亥年八月廿四日、於八丁堀寺地拝領仕致草創候処、御用地二相成寛永十二乙亥年五月廿二日、於当所替地拝領仕候。
開山南伝宗涌禅師、伊勢之人ニ而慶長十六年応神君之長女奥平侯信昌之室盛徳夫人之懇請而来為吾寺開山始祖也。住山十年余元和九癸亥年七月十八日寂。明和二年三月勅諡仏海宝珠禅師
二世中興蘭径和尚字ハ慧隆。応勅請而住妙心寺、寛永十四年九月八日於当寺而寂。
開基盛徳院殿之儀ハ古来度々之類焼ニ而書物焼失仕、御由緒相知不申候。
開山勅諡号文左之通。
勅黄曰
勅妙心開山国師第八世大用弘照禅師的孫別山禔和尚神足南伝座元人天眼祖仏祖権衡神区呈衲子機蚩受別山不伝心印武郷応賢媛請重提済水己墜宗綱濁世優曇豈非禅門巨擘能現金龍大身普注法雨等輿白牛妙乗直詣覚場星霜方一百五十尚有典刑聲価遥達九重天上宜褒賞仍諡仏海宝珠禅師
明和二年三月十六日
本堂。本尊釈迦如来、長一尺四寸坐像水谷作。
達磨大師、丈一尺五寸。大権修理菩薩、丈一尺五寸。
開山像、丈三尺一寸右各水谷作。
海珠窟額字、明和二乙酉年十一月勅額従三位藤宗時筆。
鎮守社、間口七尺奥行九尺。稲荷、大神、弁天。
古碑、戸田茂睡手向野ノ碑石也。
風のおとこけの雫も天地の絶ぬ御法の手向にハして
法号憑雲寺殿打山茂睡居士、宝永三丙戌年四月十四日卒。
以上乙酉書上
寛永年中江戸図に八丁堀に金龍寺と云見ゆ。
清水如水墓。瓢の形ちに作りし墓なり。改撰江戸志、此如水か伝柳煙雑録に見ゆこと長けれハ爰に省く。
戸田恭光入道茂睡墓(御府内寺社備考より)


金龍寺所蔵の文化財

荷田在満墓(東京都指定旧跡)

江戸時代中期の国学者で、本姓は羽倉氏で、字は持之、号を仁良斎という。通称は東之進、在満はその名である。京都伏見の稲荷神社の神官荷田信詮の三男高惟の長男として京都に生まれた。23歳の享保13年(1728)9月24日、和学者として登用されることを求めて、妹蒼生子とともに江戸に下った。徳川吉宗の次男で有職故実の研究者として知られた田安宗武に仕え、有職故実の調査に従事した。元文3年(1738)桜町天王の大嘗会(天皇が即位後初めて行う新嘗祭)に際し、幕命により「大嘗会儀式具釈」9巻を撰進した。翌年別に「大嘗会弁蒙」2巻を無断刊行して幕府に咎められ、閉門を命じられた。また、寛保2年(1742)に「国家八輪」が宗武の意見と対立し、延享3年(1746)田安家を退隠した。叔父の春満が有職故実の研究を敬称発展させて精緻な家風を打ち立て、歌論では芸術主義を貫いて、近世歌論の展開にひとつの時期を画した。宝暦元年(1751)8月4日45歳で死去し、臨済宗京都妙心寺派の金龍寺に葬られた。著書に「大嘗会便蒙御咎顛末」「令三弁」「本朝度制略考」「羽倉考」擬古文学に「白猿物語」「落合物語」がある。(東京都教育委員会)


金龍寺の周辺図