護国院|台東区上野公園にある天台宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

護国院|谷中七福神の大黒天、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音

護国院の概要

護国院は寛永寺の子院で、寛永元年(1624)釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手奥に開創、承応2年(1653)・延宝8年(1680)に寺地を西方へ移転し、さらに宝永6年(1709)当地へ移転したといいます。三代将軍家光から贈られたと伝えられる大黒天画像は谷中七福神の一つとなっています。また、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場14番、東三十三所観音霊場2番札所です。

護国院
護国院の概要
山号 -
院号 護国院
寺号 -
住所 台東区上野公園10-18
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 谷中七福神の大黒天、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場14番札所



護国院の案内

護国院は寛永元年(1624)釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手奥に開創、承応2年(1653)・延宝8年(1680)に寺地を西方へ移転し、さらに宝永6年(1709)当地へ移転したといいます。

東京名所図会による護国院の案内

護國院
護國院は。東京圖書館の西二三町ばかりなる緑樹茂れる下に在り。所謂三十六坊の其一にして。巨刹なり。大黒天を安じ。毎年一月三日を以て法會を修す。大黒天の御影は土佐信實筆なり此日供物の鏡餅を湯にひたして参詣する者にあたふ。俗之を御福の湯と呼べり。往昔何れの頃にやありけむ。谷中日暮里あたりに春のあした七福神詣といへること流行せり。七福神とは。本院の大黒天。天王寺の毘沙門天。池の端の辨財天。長安禅寺の寿老神。田畑の恵比壽。西行庵の圓通寺に移りしより。此七福神詣は昔の如く盛ならずといふ。江戸歳時記に云。七福神参大國神愛比壽(神田社地或は上野清水堂の傍)辨天(不忍池申)毘沙門(谷中天王寺)寿老人(所裏門前長安禅寺)布袋(日暮里)福禄壽(田畑西行庵)或は寿老人を除く。上野大佛の前吉祥天祠へ詣るありと見えたり。
又本院内に釈迦堂あり。寛永寺中の諸建物中に於て尤も古しと云ふ。こは昔し天海僧正が足利氏以来騒亂打續き。戦死せる者の多きを以て。其菩提を吊はむか爲に建てたるものなるが。其後寛永寺建立に因り。護國院内に移したるものなりと云ふ。(東京名所図会より)

台東区教育委員会掲示による護国院の案内

護国院は、天海の弟子生順が、釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手奥に開創した。承応2年(1653)・延宝8年(1680)に寺地を西方へ移転し、さらに宝永6年(1709)現在地に移った。延宝8年・宝永6年の移転は、それぞれ四代将軍家綱霊廟・五代将軍綱吉霊廟の建立にともなうものである。また、昭和2年、第二東京市立中学校(現、都立上野高校)建設にともない、本堂を現在の位置に移した。 現存する本堂は釈迦堂とも呼ばれ、享保7年(1722)3月の再建。間口7間(18.2メートル)、奥行5間(13.6メートル)。唐様の建築で中央奥の須弥壇に本尊釈迦三尊坐像を安置する。また、大黒天画像は三代将軍家光から贈られたものと伝え、谷中七福神のひとつとして信仰をあつめている。 庫裡の一階部分は、昭和2年の新築。東京美術学校(現、東京藝術大学美術学部)教授岡田信一郎の設計で、各間取りは機能的に配置されている。昭和初期の住宅建築の風潮を良く伝えており、平成13年国登録有形文化財に指定された。 岡田は、東京美術学校・早稲田大学で設計教育に携わるかたわら、旧鳩山市郎邸(大正13年竣工)・歌舞伎座(同年竣工)等を手がけ、和風建築の設計に手腕を発揮した人物である。(台東区教育委員会掲示より)


護国院所蔵の文化財

  • 護国院庫裡(国登録有形文化財)
  • 絹本着色不動明王二童子画像(台東区登載文化財)
  • 絹本着色慈恵大師画像(台東区登載文化財)

絹本着色不動明王二童子画像

護国院は天台宗寛永寺の子院で、寛永元年(1624)に創立されました。
本図は、縦104.8cm、横39.5cmで、不動明王とそれに従う衿迦羅・制叱迦の二童子を描きます。
中央の不動明王は燃え盛る火焔を光背とし、躰部が青彩色で、右手に剣を持ち、左手には羂索を握って、波しぶきのかかる岩上に佇立します。前面の二童子は、不動明王より低い岩に立ち、向かって右側の衿迦羅童子は不動明王に対して合掌し、左側の制叱迦童子は金剛棒をこわきに抱え、三鈷杵を右手に持っています。青色で描かれた不動明王を「青不動」と呼びますが、本図のように海中の岩上に立つ不動明王と二童子を描いたものは「波切り不動」ともいわれています。波切り不動とは、弘法大師空海が唐から日本へ帰る際、海上に現れた不動明王に救われ、遭難を免れたという故事に由来するもので、鎌倉時代以後の不動明王画像には多く描かれた図柄です。 本図は、不動明王の首かざり等の装飾に金泥を用い、火焔や波が形式化した描き方であることなどから、室町時代初期の制作と考えられます。

絹本着色慈恵大師画像

平安時代の高僧である良源(912-985)は慈恵大師・元三大師とよばれます。信仰の対象となり、多数の画像・彫刻が制作されてきました。
護国院は江戸幕府の御用絵師を務めた住吉派の菩提寺です。本図は延宝7年(1679)前後に、住吉派二代の住吉具慶(1631-1705)が制作しました。この頃、具慶は寛永寺泉龍院に滞在して『元三大師縁起絵巻』『慈眼大師縁起絵巻』を制作しています。
護国院所蔵の『東叡山 護国院小伝集』によると、護国院の依頼で具慶が本図を制作していたところ、具慶の門人が禁忌を破り肉食したため罰せられたといいます。このため本図は一時放置されたようです。
それから数年後、貞享4年(1687)に、住吉派初代の住吉如慶(1598~1670)の菩提のため、住吉広保をはじめとする住吉派の門人5名が本図に補筆補彩をおこない、護国院に寄進しました。
画中で良源は左手に独鈷杵、両手で念珠をもって、三曲の屏風を背にして礼盤上に座し、礼盤の前左右には二童子が侍立しています。屏風には山水、良源の右肩上方には龍、頭上の幔幕には日・月・星辰、礼盤の格狭間には唐獅子一対が描かれています。
画面上部の料紙には寛永寺の学頭や護国院の住職を務めた慈海(1624*93)による賛が記されます。賛文は『慈恵大師講式』二種のうち『沓冠式』の冒頭の句です。
その後、嘉永2年(1849)にも住吉弘貫による修補がありました。本図は慈恵大師信仰や住吉派に関する貴重な資料として、護国院に伝来しています。


護国院の周辺図