東光院|台東区西浅草にある天台宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

薬王山東光院|慈覚大師による草創、浅草薬師

東光院の概要

天台宗の東光院は、薬王山医王寺と号します。東光院は平安時代の初め、 天長年間(824-833)慈覚大師による草創、 その高弟の光尊阿闍梨が開基となり、 仏工春日作の薬師三尊を安置したと伝えられています。慶長年間(1596-614)小伝馬町へ移転。 当時、江戸天台3ヶ寺浅草寺、 観理院(山王日枝神社別当)、東光院といわれ、末寺108ヶ寺を有する総本寺で、浅草薬師のお寺として広く知られていましたが、慶安年中(1648-51)108ヵ寺中、85ヵ寺を寛永寺に附属し、 自ら23ヵ寺の末寺の末寺頭となりました。慶応4年(1868)江戸幕府崩壊のとき、 薩長軍と彰義隊の上野戦争が起こり、 山内を逃れた輪王寺宮(公現法親王)を匿ったことにより明治新政府より数々の圧迫を受けたこともありました。

東光院
東光院の概要
山号 薬王山
院号 東光院
寺号 医王寺
住所 台東区西浅草3-11-2
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 浅草薬師



東光院の縁起

東光院は、平安時代の初め、 天長年間(824-833)慈覚大師による草創、 その高弟の光尊阿闍梨が開基となり、 仏工春日作の薬師三尊を安置したと伝えられています。徳川家康入府後の天正19年に15石の朱印状を拝領、江戸天台宗大寺三ケ寺(浅草寺・観理院・東光院)の一つとして、108ヶ寺の末寺を擁していました。慶長年間(1596-614)江戸城常盤橋から小伝馬町へ移転、寛永寺創建後の慶安年中(1648-51)には末寺85ヵ寺を寛永寺に附属し、 自ら23ヵ寺の末寺の末寺頭となりました。明暦3年の大火後に当地へ移転しています。慶応4年(1868)の江戸幕府崩壊の際、 薩長軍と彰義隊の上野戦争が起こり、 山内を逃れた輪王寺宮(公現法親王)を匿っています。

御府内寺社備考による東光院の縁起

東叡山末 浅草新寺町
薬王山医王寺東光院、境内拝領地4258坪小半門前町有之
古常磐橋御門北之方二有之候処、御用地二相成、於小伝馬町替地被下置暫相続罷有候。只今薬師堂前と唱候場所門前二而御座候。明暦三年類焼二付、寺地浅草只今之所拝領仕、万治元年真退代本堂以下寺中8ケ院共引移申候。当寺草創慈覚大師開基光尊阿闍梨其後之歴代相知不申候。元和年中より当院住職詮長儀は、寛永年中東叡山御造立之砌蒙 仰同所江詰切罷在、既二吉祥院開基仕候。尤当院も兼住仕候。其頃東光院末門百八ケ寺御座候処、八十ケ寺余東叡山御末寺二差上、其節東光院義ハ御末寺頭二被仰付、残り寺中末門廿三ケ寺当時当院二而支配仕候。
元来当山は江戸天台宗大寺三ケ寺(浅草寺・観理院・東光院)古本寺跡ニ而三別当とも相唱濯頂室之法窟然所天正十八年
神君様関東御入国之最初当山本尊薬師如来
御信仰被為 在同十九年卯十一月 御朱印高拾五石被下置候。別当東光院於
御城正五九月大般若転読御祈祷被 仰付候由二而唯今以於自坊正五九月大般若修行其上毎月八日本寺東光院秘法供寺中之衆徒薬師経読誦密几相唱御祈祷是迄無怠慢修行仕来候。右等之御由緒二面
御代替之節一束一本献上
御目見時服拝領被 仰付且於上野
御代々様御法会之砌納経拝礼院家大僧都之格二而相勤来候。
御鷹野 御成之節古来東光院江
御膳所御小休被 仰付候由別而享保年中有徳院様御鷹野之砌東光院 御膳所二相成、還御之節本尊薬師如来被為遊 御拝御跡開帳奉蒙 御免一七日之間開帳仕候。
開基光尊阿閣梨延喜元辛酉年卒己来光円・慈観・全海・諶海、此四代年月相知不申候。元和年中当院住職詮長儀は於小伝馬町寺院二寛永十七年辰四月十五日卒。
開山中興初世真迢寛永年中東光院住職罷在候処、明暦三酉年小伝馬町寺院類焼之砌、寺地場所替於浅草新寺町拝領地被下置万治元成年当所江引移り尤真迢儀は慶安年中上京罷在長病二而於洛陽万治二亥年十一月二日寂。
四世円純元禄年中住職、同四年未十二月清浄林院之室御預ケ、同五年申四月大僧都御許容、同十二年卯正月三日寂。
八世如海享保年中住職、同十九年寅十一月大僧都御許容、同二十年卯正月廿七日寂。
十一世恵道元文六酉年浅草寺別当代当院兼住被 仰付、宝暦元末年智泉院之号被下大僧都御許容、宝暦十辰年唯誠院之室御預ケ被 仰付、同年浅草寺別当代 御免当院居住、明和五子年隠居 御免願之通被仰付安永十丑年三月十三日寂。
東光院中興初世真迢当代二十世諶長儀は去ル文政七申年五月住職被 仰付候。
御朱印寺領
右は天正十九年卯十一月
神君様御寄附被下置候処、慶長年中御用地二相成、其節御奉行衆四人御連名之御書付ヲ以麻布今井郷 之内二而代地被下置候。反別名寄帳今以所持仕候得共、右今井郷之地所元和年中之頃追々御用地二被 召上承応年中之頃迄二過半御武家方拝領地二相成候由二而唯今以代地拝領無御座候。
客殿
本尊阿弥陀如来木像、長3尺9寸立像運慶作
脇士観音、勢至菩薩、木立像運慶作各長2尺
薬師堂類焼蹟
右は元禄年中類焼、其後仮建猶亦類焼。当時再建相成兼候二付、薬師堂兼用客殿文化三寅年仮作事二 御座候。
本尊薬師如来座像、木像春日作長8寸3分
脇士日光月光菩薩、木立像春日作長9寸
不動明王立像、木像智証大師作長2尺9寸3分
毘沙門天立像木像慈覚大師作長2尺2分5寸
慈恵大師座像木像大師自作長7寸6分
右不動明王毘沙門天慈恵大師元護摩堂二安置御座候処、護摩堂類焼二付、当時客殿二安置御座候。
弁財天社。稲荷社。地蔵尊石立像。
鐘楼堂
右鐘楼堂之儀者元禄年中類焼、其後再建、享保年中修復之儀奉願候趣書留相見候得共、尚亦類焼之年限相分不申候。当時は撞鐘も無御座候。
仁王門
右者往古度々類焼、明和年中も再建御座候由之処、猶亦類焼、後再建立未出来兼申候。
宝篋印塔、土台5尺四方台石共ニ惣高1丈2尺。
右者文化十一成年当院十七世豪歓代造立。
石灯籠一対。
右者薬師宝前二有之。元禄五申年十月造立。
惣門外先年練塀之処当時仮板塀
寺中
実蔵院。右者文化三寅年類焼後再建立出来不申候。
自性院。右者文化三寅年類焼後再建立出来不申候。
宝勝院。客殿、本尊弥陀如来木座像長1尺1寸7分。
明王院。客殿、本尊弥陀如来木立像長1尺9寸5分。護摩堂仮建間口2間奥行2間半。本尊不動明王木立像丈3尺7寸4分。
不動院。客殿、本尊馬頭観世音木立像長1尺1寸5分。護摩堂土蔵造間口2間奥行2間半。本尊不動明王銅座像長2尺6寸。附二童子木立像長2尺1寸。
明光院。右者文化三寅年類焼後再建立出来不申候。
一乗院。客殿、本尊弥陀如来木座像長1尺3寸4分。脇士観音勢至菩薩木各半座像長1尺2寸3分。護摩堂土蔵造間口2間半奥行3間。本尊不動明王木座像長1尺6寸7分。附二童子木立像長1尺7寸。
蓮城院。客殿、本尊弥陀如来木座像長1尺2寸5分。護摩堂土蔵造間口2間奥行2間半。本尊不動明王木座像長1尺4寸、附二童子。相殿十二神木立像
御朱印井古書写、浅草東光院
寄進、東光院。
武蔵国豊嶋郡 江戸之内 拾五石之事 右令寄附畢 殊寺中可為 不入去也偽如件
天正十九年辛卯十一月日
右御本紙は大鷹紙弐ッ折二有之候。
此己前之御神領御普請場二罷成候。替高給五石分於今井郷之内相渡申候辰年物成可有前務者也。
彦坂小刑部元正判、伊奈備前守忠次判、内藤修理売清成判、青山常陸介忠成判
(中略)以上乙酉書上
東光院ハ慈覚大師の御草創にして顕密二教ともにひろまり、台家一百八ケ寺の惣本寺なり。本尊ハ春日の御作として、東方浄瑠璃世界の教主薬師医王の形像なり。そのかミ太田の持資入道道濯此本尊をあかめ奉り、江城の鬼門にたて利生のまもりをあふかれしに 東照権現此城におはしましける御代にも猶 あかめ姶ふ。古しへにこへ給へり。其時の院主におはせて御殿中にして毎年の正五九月にハ、大般若を転読せしめて、江城長久の御祈祷ありけり。共時ハ今の常盤橋の北の地に有けるを、江城月をかさね日を追てにきはひさかへ給ふによって寺を伝馬町へ引うつされたり。寺院いらかをみかき樹木梢をあら そひけるを、酉のとしの回祿にことことく焼ほろひてわつかに本尊の薬師と智証大師御作の不動尊并に雲慶のつくれる弥陀如来の尊像のミのこらせ給ふ。この時にあたって又寺地を浅草にうつされ、自他宗の寺院おなしく新寺町と号す。ことさらに当寺ハかたしけなくも 一品尊敬親王則山門無動寺の松林 房賢海に法印に仰て寺院を再興せしめ給ふ。江戸名所記。
慶長の比御とうとミましまし正五九月大般若転読なさしめ給ふ。其頃常盤橋の北にあり。其後小伝馬町へうつさる。此所を今に薬師堂まへと云。江戸砂子。(御府内寺社備考より)


東光院の周辺図