大国魂神社|府中市宮町の神社

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大国魂神社|景行天皇41年創立、武蔵惣社、武蔵国内六社を奉祀六所宮

大国魂神社の概要

大国魂神社は府中市宮町にある神社です。大国魂神社は、景行天皇41年(111年)5月5日大神の託宣によって創立、大化の改新後には国司が国内諸社の奉幣巡拝等の便により国内の諸神を配祀したので「武蔵惣社」と称し、又両側に国内著明の神社六社を奉祀、六所明神、六所宮と称したといいます。江戸時代には社領500石の御朱印状を拝領、明治維新に伴い準勅祭社となり、明治7年県社に、明治18年に官幣小社に列格していました。

大国魂神社
大国魂神社の概要
社号 大国魂神社
祭神 大國魂大神(小野大神、小河大神、氷川大神、秩父大神、金佐奈大神、杉山大神、御霊大神、国内諸神)
相殿 -
境内社 稲荷神社、宮之咩神社、松尾神社、巽神社、東照宮、住吉神社、大鳥神社、水神社
住所 府中市宮町3-1
祭日 例祭日5月5日
備考 旧官幣小社、武蔵国惣社



大国魂神社の由緒

大国魂神社は、景行天皇41年(111年)5月5日大神の託宣によって創立、大化の改新後には国司が国内諸社の奉幣巡拝等の便により国内の諸神を配祀したので「武蔵惣社」と称し、又両側に国内著明の神社六社を奉祀、六所明神、六所宮と称したといいます。江戸時代には社領500石の御朱印状を拝領、明治維新に伴い準勅祭社となり、明治7年県社に、明治18年に官幣小社に列格していました。

大国魂神社・府中市観光協会掲示による大国魂神社の由緒

武蔵惣社大国魂神社
当神社は、大国魂神を武蔵の国魂と仰いで、鎮祭し祀った神社である。
第12代景行天皇41年(111年)5月5日大神の託宣によって創立せられ、武蔵国造が代々奉仕して祭務を司った。其の後孝徳天皇の御代に至り、大化の改新(645年)により武蔵野国府がこの地に置かれて、当社を国衙の斎場として、国司が祭祀を奉仕して国内の祭政を司った。国司が国内諸社の奉幣巡拝等の便により国内の諸神を配祀したので「武蔵惣社」と称し、又両側に国内著明の神社六社を奉祀したので「六所明神」「六所宮」とも称された。鎌倉幕府以後徳川幕府に至るまで代々幕府の崇敬厚く、再三社殿を造営し、徳川幕府より社領500石を寄進せられた。明治18年より昭和21年迄官幣小社に列せられ、其の後宗教法人と成る。(大国魂神社・府中市観光協会掲示より)

新編武蔵風土記稿による大国魂神社の由緒

(六所社領)六所社
社地、三町八段二畝十歩、甲州街道の南にあり、石の大鳥居を建つ、往還に臨めり、総社六所観やといへる額を掲ぐ、筆者細井廣澤なり、それより又七八歩にして石鳥居あり、慶長年中宮の修造のよしを彫たる文字見えたり、今断折したれど分明なり、当社祭る所六神素盞嗚命・大己貴尊・布留太神、共に一殿、是を中殿とす、瓊瓊杵尊・伊弉册尊・大宮女命共に一殿、是を西殿とす、外に瀬織津比咩・天下春命・稲倉魂太神共に一殿、是を東殿とす、三殿合せて一社とす、是を本社と云、七間半に三間余、幣殿三間余に三間、拝殿八間余に三間半、其中に就て、左右を分ちて唱へをなす、左を般若席といひ、右を神楽席といふ、四方に瑞離を繽らせり、社傳に景行帝の御宇大己貴尊、小川郷小野里に降臨ありしを、里人私に祠を立て祀れり、成務天皇の朝に及て、兄多毛比尊国造を賜て此地に来り、国府を開かれし時、大己貴尊に素盞嗚尊等の五神を配して、始て宮社を建て祭れり、これを六所宮と称せりと、(一説六神は大己貴尊・少彦名尊・事代主命・健御名方尊・武甕槌命・経津主尊なり、また近来大己貴尊・去来册尊・眼狭雄尊・布留太神・大宮賈命・亜肖気命を以六神に充るものあり、いまだ孰れが是なるをしらず、今姑く社傳に従ふ、)又社傳に総命けて大麻止乃豆天乃神といへりと云て、式内の神にあつるものあるは覚束なき説なり、今採用せず、東殿の三神は樹扉に印記して、一乃宮小野客来三所瀬織津比咩天下春命稲倉魂神とあり、一乃宮は即ち多西の一之宮村祭神天下春命なりと云ふ、小野は本宿村小野神社祭神瀬織津比咩なり、今なを二社各村に其祠宇あり、何の故ありて何れの世神坐を当社に移して、合殿に祭しや其来由を詳にせず、社傳粉々たりといへども顛末造かならざれば、亦敢て据用しがたし、おもふに当社は後世鎌倉将軍家の崇敬盛なるに従て、神威も日月に愈栄へ、彼二社は従て衰微に及びし故、総社の因を以てここに併せ遷し、別に一殿を添て合せて九神一社となせしものなるべし、故に樹扉に客来のよしを勅して、当社の舊主に別てるならん、客来の内稲倉魂いづれより遷座なりしといふこと詳かならず、或は云もと小野神社配祀の神なりとも、又自ら一社にして遷座の舊祠を失ひしものと、未其定説をきかず、当社後に本地佛を建て、釈迦聖観音毘沙門を中殿三神の本地とす、西殿は弥勒地蔵不動、東殿は薬師文殊十一面観音なり、抑当社の古へを訪ぬるに、康平五年源将軍頼義、奥州安倍の貞任を追伐のため、東国へ下りし時、六月十九日当社へ一宿して戦功を祈り、翌日彼地をさして發向す、果して軍勝利ありし故、凱旋の後社木干樹を植られしとぞ、今鳥居内両邊の大木是なりといへり、今に年々六月廿日天下太平の神事あるも、又其因みとかや治承の昔源頼朝兵を起し、分倍河原に於て、関東の軍勢をめし集めしきさみも、当社に参詣ありて神馬上詣矢を捧げしよし傳へたり、寿永元年八月十一日御臺所産に臨み、祈祷のため伊豆箱根を初め、近国の宮社に幣使を立られし時も、葛西三郎清重当社に至れり、社傳に文治二年宮祠造営を加へられしよしをいへり、按に「東鑑」文治二年六月廿九日の條に、二品神社佛寺興行の事、日来の恩顧、且は京都に申され、東海道に於ては守護人等に仰せ、其国の総社并に国分寺破壊及尼寺顛倒の事を注せらる、是全く修造を加へられしがためなりと見えたれば、是年当社も修造ありしこと社傳のごとくなるべし、又建久三年五月八日、法皇四十九日の佛事を修せられ、百僧供あり、其僧衆に六所宮二口と見ゆ、さればこの祠の社僧預りしことなるべし、其後寛喜四年二月拝殿破壊に因て修理の議あり、武藤左衛門尉資頼奉行すと云々、此等に据れば其頃将軍家の崇敬自らしるべし、上杉家関東に威を振ひし頃に至ても、代々武州の守護にてありし故にや、伊豆の国国清寺に当社を勧請せりといふ、ただし永禄四年上杉景虎当社へ参詣せしことものに出たり、是は崇敬の故にはあらずときこゆ、此時小田原を責んとの計策相違して、鎌倉を引拂ひ、上州へ帰る時、なをもいきをひをしめさんとて、この社参ありしなり、このきさみ北條家人中條出羽守等景虎が小荷駄奉行柿崎某を追くづし、荷物を悉く奪ひければ、景虎府中に逗留して民家を追捕し、兵糧をととのへて上州へと帰なん、御開国に及んでも当社を尊信せさせたまふ事浅からず、先規に任せて神領を附せらる、慶長十五年宮者及楼門鳥居諸末社以下倉庫等に至るまで、造営を加へらる、この時大久保石見守長安奉行せり、かの石見守奉納の銅燈籠今に存せり、元和三年東照宮の尊骸、日光山へ遷御の時、この地に一日御逗留あり、因て社地に神靈を崇祀したてまつる、翌四年御宮并に三重塔鼓楼等新宮を命ぜられ、且四月十七日の祭奠を許容せらる、しかるに正保三年十一月本町より出火して、社殿残らず燼となる。(この時の焼余なりとて、朱髪の殿扉六枚、楼門の格子戸四枚、今猶蔵して神庫に在)、因て寛文七年再営の命ありて、久世大和守廣之其事を奉行す、今の宮社是なり、楼門以下三重塔鼓楼等はみな略せらる、其後享保中社殿大破の由訴へ上ければ、白銀百錠を下され、并に助費の勧化を許さる、是より宮の修理を停られ、後是を例とすといふ、例祭は年々五月五日なり、この日申の刻ばかりより神輿を仮殿に遷し、奉幣の礼を行ふ、この時里民等ことごとく燭をあくることを禁ぜり、それより野口の仮殿に遷し、献酬の礼ありて、又もとの仮殿にかへりて、流鏑馬の式あり、ここに至りて始て燭をあけ、神輿本社に遷れり、このほか年中の祭儀はたびたび有れど略せり。
東照宮神殿
九尺四方瑞(草冠に離)を続らせり、本社の西に建築あり。
宮姫
本社九尺に一丈二尺、拝殿二間に三間、二の鳥居内東の方にあり、祭神須勢理比咩・稲田比咩・木花開耶比咩、例祭七月十二日、鎮座の来由詳ならず、或云、国造の始て祀る所なりと。
本地堂
三間四方、釈迦・地蔵・十一面観音三体を安す。釈迦を中尊とす、長二尺、地蔵長一尺六寸、観音長九寸、中尊の左右に列す。
護摩堂
本社の東にあり、不動を安す、木の坐像長二尺ばかり。
炊屋
五間に三間、護摩堂の傍にあり。
神輿舎
三間に五間、本地堂の前に在。
随身門
三間に四間、内に番所あり。
水屋
随身門にあり。
膳殿
二間に三間、本社の西南にあり。
鐵佛一体
弥陀の坐像なり、長七尺余覆屋あり、此鐵佛国分寺の舊物なるべしと云、其故は国分寺より一丁程西南の谷よりほり出したるを、後この社地に移せりといふ、其谷を鐵谷といへるも此佛出し故なるか、或云戀ヶ久保村にありしもの移せりと、銘あり左の如し、
銘曰
大勧進念阿弥陀佛、明達大工藤原助近右志物、過去二親行厳新發意、乃至法界衆生平等利益、奉鋳一丈二尺佛身也、
建長五年癸丑二月十八日丙寅彼岸初日
今はこの銘文磨滅してみがたし。
末社
八幡社(註:六所八幡神社)。除地、三丁三畝十歩、小社、本社より四丁程東にあり、此邊呼て八幡村と云ふ、鳥居あり街道に臨めり、鳥居より社前に至るまで左右松樹を列す、例祭年々八月十五日。
天神社(註:六所日吉神社)。除地、二段、小社、本社より東一丁余にあり、祭神少彦名命、例祭毎年二月廿五日。
滝神社。本社より八丁程東にあり、小社、稲倉魂太神を祀れりといふ、例祭年々四月初巳日、社前に爆水あり、六所五月の祭儀神職以下この瀧に於て御祓をなすといふ。
石塚社。除地、四段五畝十五歩、小社、本社の東六丁程にあり、祭神磐筒男命磐筒女命、例祭年々正月十五日。
制札
二ヵ所にあり、一は鳥居の傍にたつ、この所に昔し馬市たちしかばその法制書をせし高札今も存せるなり、ここに馬市のたちしはその由て来ることいと久きことなり、今社地の内に古馬場と唱ふる所あり、これは往古此邊に御牧ありし時、その馬をここに集めて擇ひし所なるよし云傳ふ、それより今に土人の言に細馬謳馬の語あり、細馬は善馬の古言なりとかかりし故を以て夫より遥かの後までも馬市たちて甲斐・信濃・陸奥等の野馬をここにて擇びしと云、御打入の後関ヶ原及び大坂の役に用いられし軍馬も、ここにて擇ばれしとぞ、因て大坂凱旋の後一の鳥居の左右に於て、三百歩の馬場に埓を寄附せられ、ここにて馬市を立たり、その後享保年間にこの市を江戸麻布に移されしより、此地には廃せりされど古への例によりて、今も年々十月江戸馬喰町の名主高木源兵衛、及石町の名主山本傳右衛門官の御馬をひき来りて、この馬場にて調し、それより本社及び御宮に参拝す、これを吉例の御馬と称せりと云、この制札は馬場御寄附の時定られし掟書なり、其文左に記す、

一此所ニおゐて馬町立之事、
五月三日駒くらへより初め、九月晦日限るへし、彌堅此おもむきを相守へし、
若違背之輩於有之者、曲事たるへき者也、依而下知如件、
月日
奉行
一は、社地の竹木を伐採及び牛馬の通行等のことを禁ぜられし掟書にて、寛文七年と記せり、これも鳥居のほとりにたてり、
馬市
この所に馬市のたちしは由て来ること甚だ久し、往古は総て諸国に御牧ありて、国造国司等に諭して撰で奉らしむ、延喜式左馬寮に、武蔵国牧四ヵ所を載たり、石川由比小川立野と云々、武蔵風土記に小野神社を小川郷にかけり、此書信用しがたしといへども、古書なることは論なければ、此等姑く取るべきに似たりといへども、和名抄に載て当郡に小野郷小川郷并に其余十箇の郷名あれば、此所は全く小野郷にして、小野神社は古へより本宿村にありしものならん、小川郷をそらくは他所なるべし、又近村に小川村などあれど、是は新墾の地にして、中古まで武蔵野の廣原を開かれ其開墾せし民の氏を小川と称するに因て、村名とせし地なれば、舊跡にかかわらず和名抄に載たる小川郷の遺名ともすべきは、小宮領に小川村あり、其邊の二ノ宮社頭へ応永十九年大般若経勧進せし文に、多西郡小川郷と書たるものあれば此等古く小川郷にて、秋川・多摩川の流れも固循し、又村内に藍染側など云小流、二ノ宮社頭の御手洗と号する沼地など有て、水早の便もあれば小川牧と称するは、彼土なること疑ふべくもあらず、又拾芥抄に八月廿日壹武蔵小野御馬、廿五日壹武蔵立野馬云々、然るに延喜式に小川ありて拾芥抄には小野と載たり、按に小野は古へ懸号にて、殊に上古府疔を置れし地なれば、御牧の別当牧監より府疔へ牧馬を送りしを、国司郡司等細馬を撰びたてまつりしを、拾芥抄にのする小野御馬とあるは、このことならん、されば小川牧或は小野牧とも混じていへるならん。
神職(中略)
禰宜一人織田出雲、社家四人。佐野数馬、鹿嶋田隼人、中善寺某、田村右善等なり。
社人三十五人。
社僧七人。惣行寺、明王院、円福寺、花光院、妙法寺、安楽院、泉蔵寺以上七院皆天台宗にて、宿内安養寺末なれども、祀事においては神主の配隷に属す、その寺及び宅地は皆神領の内、社邊に居れり。(新編武蔵風土記稿より)


大国魂神社所蔵の文化財

  • 大国魂神社鼓楼
  • 大国魂神社境内樹木の一部

大国魂神社鼓楼

鼓楼は太鼓を懸け時刻を知らせるための建物で、元来中国で発達し、わが国へは鎌倉時代に移入され、主として寺院に設けられました。そして江戸時代になると鐘楼と相対して造られることが多く、宇治の万福寺や日光東照宮のものがよく知られています。
大国魂神社では慶長年間の造営の際に、三重塔と相対して建てられましたが、正保三年(1646)の大火で焼失、二〇〇年余たった嘉永七年(1854)に再建されました。現存するこの鼓楼は、その再建蓮社板によれば、府中をはじめ日野・多摩・町田の各市域の一七名の人々によって寄進されたものであることがわかります。
その後、数度の修理が加えられていますが、よく当初の原形を保っており、神社では数少ない貴重な建築物です。(府中市教育委員会掲示より)

大国魂神社境内樹木の一部

大国魂神社境内の樹木群のうちには、特に大木や巨木が多く、その長い歴史の流れの中にあって、ここを訪れる人々を見守り続けている。
中でも本殿の裏手にある大銀杏は、幹の周囲(目通り)八・六メートル、樹高二〇・三メートルの巨木で、大国魂神社の七不思議の一つに数えられている。また、東照宮西裏のケヤキのうちの一本は、幹の周囲五メートル、樹高三四・六メートルもあり、数ある境内のケヤキの中でも群を抜く巨木である。
永く風雪に耐えたこうした巨木は、優れた遺伝子を保持していることも知られており、学術的な意義も高い。(府中市教育委員会掲示より)


大国魂神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿