百草八幡神社|日野市百草の神社

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百草八幡神社|天平の文字が刻されている狛犬、源頼義再興

百草八幡神社の概要

百草八幡神社は、日野市百草にある神社です。百草八幡神社の創建年代は不詳ですが、当地には天平年間に真慈悲寺が建立されたという地で、当社の狛犬には天平の文字が刻されているといい、源頼義が康平5年(1062)再興したといいます。

百草八幡神社
百草八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 誉田別命、気長足姫命、武内宿彌
相殿 -
境内社 稲荷神社、若宮神社(境外末社)
住所 日野市百草867
祭日 例祭日9月15日
備考 -



百草八幡神社の由緒

百草八幡神社の創建年代は不詳ですが、当地には天平年間に真慈悲寺が建立されたという地で、当社の狛犬には天平の文字が刻されているといい、源頼義が康平5年(1062)再興したといいます。

新編武蔵風土記稿による百草八幡神社の由緒

(百草村)八幡社
除地、九萬坪、村の西の方にあり、入口に石階二十級を設く、その上に鳥居を立、本社は三間に三尺五寸にて、五間四方の上屋あり、又其前に三間に五間の拝殿あり、神體は六軀にて共に木像なり、其一は長三寸二分背に王仁源義家納と記す、王仁を配祀すること其故を詳にせず、一躯は長六寸許の女體の坐像なり、後に皇后宮大神直御形も見分らず、銘も有べけれど剥落したれば、何の神體なることは知らず(新編武蔵風土記稿より)

東京都神社名鑑による百草八幡神社の由緒

創建の年代は不詳であるが、社宝の石造狛犬に天平の文字があり古い社である。康平五年(一〇六二)源頼義、安部貞任、宗任征討の折、この地をよぎられ再建されたといわれる。そのとき源義家は、津戸明神に武内宿禰の像を寄進する。また建久三年(二九二)源頼朝武道長久を祈願した太刀一振の奉納があり、古くは古富八幡社と称され、祭田五百石があったといわれる。天正元年(一五七三)社殿造営、その後、慶長十五年(一六一〇)九月、寛永九年(一六三二)、寛文六年(一六六六)にも修理された。例祭は旧暦八月十五日にあたり、村民たちが神楽を奏で、神酒等を捧げまつった。(東京都神社名鑑より)

日野市史による百草八幡神社の由緒

創祀は、『百草村升井山正八幡宮伝紀』によれば、康平五年(一〇六二)源頼義が宣旨を受けて奥州下向の時とあるが、下向の時とすれば永承六年(一〇五一)が正しいようである。また『新編武蔵風土記稿』・『武蔵名勝図会」・『江戸名所図会』・『調布日記』 にも康平五年等の記述がある。
『武州多摩郡百草村桝井山正八幡宮伝紀』元禄十四年(一七〇一)五月、別当寺の松連寺の住職、臨済宗三十五世亀光鑑によって書き著された(破損が甚だしいため昭和五十一年修復)。
金銅阿弥陀如来坐像一体 建長二年(一二五〇)施主源氏某より、源家の祈禱所(吾妻鏡)であった当所真慈悲寺に寄進され、同寺廃亡後は百草八幡宮の本地仏となっていた。昭和二十五年国の重要文化財に指定された。(日野市史より)

百草八幡神社の別当であった松連寺について

松連禅寺の碑解説板
この碑は文政一三年(一八三〇)に松連寺八代住職魯庵によって建立されたもので、撰・書家は小田原藩士岡田雄(岡田左大夫光雄、御番頭、右筆)による、像高一・七メートル、総高二・七メートルの精巧な作りである。
松連寺は明治六年(一八七三)に廃寺となり、百草出身の横浜貿易商青木角蔵翁が買い取り、明治二〇年に百草園として公開した。昭和三二年に京王電鉄株式会社の所有となっている。
この碑文によると、この地に天平年中に道慈により建立された寺があり、鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖の頼義・義家が奥州の前九年・後三年の役に際して祈願し、戦勝後、伽藍坊門を建てた、昔は五百石の祭田があったが、名前のみが残る、新田義貞が北条氏を討った分倍河原の戦で、寺は消失したが、年を経て慶長年中に新たに庵を造り海印を庵主とした。後に黄檗宗瑞聖寺の末寺となり、光鑑を主僧、慧極を中興開士とし、光宗・無文・悦門・関捩・自穏・祖門・魯庵と八代続く。小田原城主大久保忠増の室、寿昌尼は、慧極・北宗とともに慈岳山松連寺を建立した。寺宝には源義家の木像や軍器をはじめ、真慈悲寺と背銘のある阿弥陀仏など多数ある。魯庵の項には寺は衰微していたため、松連寺十八景を新たに作り、宝物を展観し昔の歴史を広く知らせた。この魯庵を当地の代官中村八大夫知剛が助け、殿堂を修繕し、この碑の費も負担した、とある。
江戸時代初期には、桝(増)井山松連寺に源義家に関わる寺宝や、真慈悲寺と背銘のある阿弥陀仏等が相伝していたが、享保二年(一七一七)に慈岳山松連寺に引き継がれた、松連寺を別当としていた百草八幡神社は、中世には鎌倉の鶴岡八幡宮と関係があったとされ、義家と墨書された古い神像等を伝えているとされる。
魯庵が松連寺を整備し、江戸の文人を招致したため、紀行文が多く残され、「江戸名所図会」等にも記された。現在松連寺のことがかなり判明するのは、この碑をはじめとする魯庵の業績に負うところが大きい。
なお、碑文では、松連寺が奈良時代に建立されたように読めるが、その点には疑問がある。また、分倍河原合戦にて寺は消失したとあるが、その痕跡はまだ発掘調査では見つかっていない。(日野市郷土資料館掲示より)


百草八幡神社所蔵の文化財

  • 銅造阿弥陀如来坐像一軀(国宝)
  • 剣二振刀一振(国重要文化財)
  • 百草観音像外五軀(市文化財指定)
  • 風致林(市文化財指定)

銅造阿弥陀如来坐像

鎌倉時代の建長2年(1250)、武州西郡吉富郷真慈悲寺の僧慶祐が、施主源氏一門の願により、天皇をはじめ、幕府執権、当国国司、地頭、名主の安穏泰平、子孫の平安を祈り造立されたものである。吉富郷はこの百草の地一帯の旧称であるが、真慈悲寺は早くに廃絶し、その旧跡もいまは不明である。
阿弥陀の定印を結び、端然と結跏趺座の姿につくられている。やや均整を欠く両肩の線や重厚な体軀、そして大きく孤を描く強い肩、抑揚のない眼尻、しっかり結んだ口唇など個性的な表情をみせている。その素朴な表現には鎌倉時代特有の力強さと親しみやすさが感じられる優品である。本像の背面に造立の由緒を伝える銘文が刻まれているのも貴重である。なお木製の光背、台座は後補である。(日野市教育委員会掲示より)

百草八幡神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 東京都神社名鑑
  • 日野市史