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武蔵御嶽神社|青梅市御嶽山の神社

武蔵御嶽神社の概要

武蔵御嶽神社は、青梅市御嶽山にある神社です。武蔵御嶽神社は、崇神天皇七年(前90年)の創建と伝えられ、日本武尊御東征に際して、火難盗難退除の守護神として祀られたといいます。聖武天皇の天平八年(736)には、僧行基が蔵王権現を安置したと伝えられ、延喜式神明帳に多摩八座の一「大麻止乃豆乃天神社」に比定されるともいいます。鎌倉将軍家や、足利管領家などからも崇敬を受け、徳川家康が関東入国の際には天正18年(1590)社領30石の御朱印状を拝領、明治期には府社に列格、昭和27年武州御嶽神社と改称したといいます。

武蔵御嶽神社
武蔵御嶽神社の概要
社号 御嶽神社
祭神 櫛眞智命、大己貴命、少名彦命、(奥宮)日本武尊、(御眷属)大口眞神
相殿 -
境内社 八雲神社、稲荷神社、山神社、霹靂社、愛敬社、大国主社、恵毘須社、宗像社、水神社、風神社、日神社、月夜見社、御嶽社、八幡社、春日社、神明社、琴平社、住吉社
住所 青梅市御嶽山176
祭日 5月8日
備考 -



武蔵御嶽神社の由緒

武蔵御嶽神社は、崇神天皇七年(前90年)の創建と伝えられ、日本武尊御東征に際して、火難盗難退除の守護神として祀られたといいます。聖武天皇の天平八年(736)には、僧行基が蔵王権現を安置したと伝えられ、延喜式神明帳に多摩八座の一「大麻止乃豆乃天神社」に比定されるともいいます。鎌倉将軍家や、足利管領家などからも崇敬を受け、徳川家康が関東入国の際には天正18年(1590)社領30石の御朱印状を拝領、明治期には府社に列格、昭和27年武州御嶽神社と改称したといいます。

新編武蔵風土記稿による武蔵御嶽神社の由緒

(御嶽村)御嶽社
中央の山上にあり、東面にて八尺四方の檜皮葺なり、四面に瑞籬あり、周匝二十四間、御戸帳は白地の金襴にて御紋を縫ひ出せり、社内の四方に鶴亀松竹を畫きたる絹障子を設く、狩野探幽が筆なりと云、又内のその左右に昇降の龍を彫りたる障子あり、これは左甚五郎が造る處なりといへど定かならず、元和八年に記せし社傳を閲るに、人皇十二代景行天皇四十年に、日本武尊東夷征伐のため御下向ありしとき、相模國より渡海せられ陸奥を平げ給ひそれより常陸をしづめ甲斐の國に至り、猶信越の諸國を王化に歸せしめ給はんと、上州より當國に来り給ひて、この御嶽山に陣營をすべられ、服するを睦ひ、背けるを誅し給ひて、東南の國々みな平均せしかば、ふたたびこの陣營にかへり給ひ、猶西北を志し給ひて山路の峻岨を越、今の奥ノ院高良山武内大臣山の邊をすぎ給ひしに、深山の邪神大なる白鹿と化して、道路をふさぎける、猶太占を以山鬼なることをしり給ひ、山蒜をとりて大鹿の面に弾き給ひしかば、あやまたず眼にあたりて斃れけるとき、山谷鳴動して雲霧四方に起り、群臣路に迷ひしとき忽然として白狼あらはれ、前驅して西北に導きまいらせけり、尊狼に告給ひてこれより本陣にかへり、火災盗難を守護すべしとありければ、獣ながらかしこまりし顔色あらはれて、御嶽山に向ひて去りしとなり、これ當山火難盗難退除の守護神たることのよしなり、され尊は事成らきて再びこの山にかへり給ひ、御身につけ給ひし御鎧をとかせられ、永く岩倉に納め給ふ、これ當國に名を得しことのよしなり」、又の給ひしは此國千歳の後、萬代不易の治世あるべしと、これ當山を國の鎮護と仰ぐ基なり、後七百歳の星霜をへて人皇四十五代、聖武天皇の御宇天平八年社稷安全の爲に、行基菩薩命を奉じて東國に下向し、この嶽は往昔日本武尊の陣營の古迹にして、東國治平の源なればこの地を卜して堂舎を立、御長一搩手半(今の三尺に准す)の蔵王権現の像を彫り、是を鎔かして金銅の像を治鑄して安置せり、抑この勅願の叡慮は、東國の愚民等ややもすれば闘諍をなし、しかのみならず、去年病災に罹りて諸民困苦することを憂ひ給ひてより事おこれりとぞ、その後再び勅命下りて黄金を以鑄さしめ給ふ、是當今安置する所の神像なり、ここに於て宮殿坊舎甍を並べて當國の靈場たりしが、建久二年の秋秩父庄司重忠奥州の軍に先鋒たるの功により、将軍家より此杣郡を賜はり、御嶽山に城を築きて住居せしが、原文二年乙丑重忠二俣川にて戦死せし時、兵火の爲に宮殿以下ことごとく灰燼となれり、その後文暦元年攝政道家卿祈念のことありて、四條帝へ奏聞して神社佛閣ことごとく故に復し、散位大中臣國兼を祭祀の司職と定めらる時に、鎌倉将軍賴家より、神領として永錢三十六貫文の地を寄附せらる、由て司職國兼本迹縁起の神道を極め、佛道の制を換て神社の式に改め、行基が作りし蔵王の像を垂迹とし坂本なる地主の神大麻止乃豆の天神に神秘一座を加へて二座合一の神社とし、御嶽山大権現と號せり、國兼は始め伊勢の大宮司にして、姓は大中臣氏は大枝といへり、さきに承久年中新院人皇六十四代順徳帝の命に應じ、佐々木廣綱と共に平義時を討せんとして利あらず、官軍ついに敗續して新院四國に遷され給ふの時、國兼は佐渡國へ遁れたりしが、己が舊跡なりし遠江國の住人濱名民部丞といふものの家に隠れ、濱名氏を以氏となせり、その後寛喜元年國家の騒亂を歎き、ひそかに帝都の平安に復せんことを祈り奉んとて笈を負て諸國を順行し、遂にこの山に来りしに靈夢の告を蒙りけり、果して文暦中に至りて當山の司職となれり、その後寶治元年三浦光村が逆意をくはだてしとき、國兼これに與するの流言あり、やがて鎌倉の管領より兵を廢して、社殿を破壊し國兼を誅せんとす、たまたま不思議の神託ありて軍士神威に怖れて近づかず、依て國兼が罪なきこと自らあらはれて、兵革のこともやみぬ、建長七年二月十一日國兼司職二十一年高良山に登りて昇天せりと云、(國兼昇天のことは壬生尼の置文に詳なりと云)これより後弘安三年北條時宗蒙古退治の比、祈願のことありて神體をしばらく鎌倉に迎へしが、いくばくもなく夷賊みなごろしとなりしゆへに、明る四年の八月惟康親王より元のごとくに神體を當山へかへしたまへり、延文四年三月八日足利義詮神馬を奉れり、ついに管領基氏より諸社堂塔修造のことあり、應永廿三年十一月上杉氏憲入道逆意のとき、管領憲基當山に陣をとりて京軍と共に氏憲を敗るの時、山の社家軍役に從ひ功あるにより、明る二十四年の八月社領ことごとく造營あり、且今より以来来武衛の事を兼へしとて、時の神主國房へ神領の祖とそこばくの地を賜へり、その後山内の憲實崇敬あさからずして、永享八年神領加増のことあり、この餘諸家よりの寄附祈願のことは枚擧するにいとまあらず、小田原北條家關東に威を振ふとき、當山の神領及ひ武衛の領知を創りしかば、宮社もやうやくおとろへたり、天正十八年御入國の後、東照宮より武營の役を御ゆるしあり、且山上一里の地と舊領三十餘石の御寄附ありて、御朱印を賜はり、ついで慶長十年大久保石見守に仰せて、本社以下の御再建あり、ここに江城鎮護の御祈願として、古より南面の社なりしを、東向に建改められしとぞ、時に慶長十一年八月落成に及びしかば、太刀一振・神馬一匹を御奉納ありて、御當家繁榮のことをちかひ給ひしより、社領再び古に復して今に至ると云、祭禮毎年十二月廿八日、武器をかざり神輿を渡す、是を陽祭とも花祭とも唱へり、又九月廿九日流鏑馬あり、これを陰祭とも合穂祭とも云、其餘春秋社日四月八日・七月七日・十一月十五日にも略祭あり、又近里遠里のものつどいて、太々神楽を時々奉納するにより、山上常ににぎはへり。
拝殿。東面にたてり、八間に四間、左右に石にて作りし狗、二軀をおき、前に石階二十五級あり。
奥院。本社により西の方十八間許を隔てて、甲籠山の中腹に特立せる盤岩にあり、是を岩倉と唱へり、社地の内凡十五六歩、小社にて前に二間に九尺の拝殿を立、祭神は伊弉册尊・火産靈二座也、神體は圓徑八寸許の鏡にして、右手に剣を擁し、左手を膝上に置、面相威厳ある像を鑄出せり。
奥之奥院。奥院の後背なる絶頂にあり、社地凡二十坪許、石の小祠にて銅扉なり、大天狗・小天狗・櫻坊の三座をあはせ祀れりといふ。
寶物
日本武尊御鎧一領。聖武帝の御宇、天平八年今の南小曽木村なる岩倉より掘出して、當山に移せりと云、享保年中神寶上覧ありしとき、日本武尊の御鎧は武蔵國號の由て起る處の品なればしめをくべしとて、上箱を御寄附ありしと云つとふ。
秩父重忠鎧一領。畠山重忠日本武尊の鎧を模して着領とせしが、後に奉納せりといへり、これも享保年中上覧の時、御具足師岩井定富に仰せて、御修理を加へられて返し給ふといひ傳へり。
寶壽丸太刀一振。重忠自筆の願書をそへて寄附する處なり、重忠の負太刀とも、又陣太刀とも云ひ傳へるなり。
空鞍一口。厚貝にて蛇の目の模様あり。
鎧一口。舌長御鎧なり。
唐轡一口。重乗が作なり、以上三品は四條帝文暦元年御馬を牽せられしときのものなりと。
正宗太刀一降。武州入東郡安松所澤住人、斎藤主計佑信廣治四年閏二月奉納の銘あり。
厄除久利加羅太刀一振。天満自在天神の六字を鐫る、いつの比か山本源次郎と云もの、少年二十五歳に當り、百日斎戒して作る處なりと云。
源尊氏神領寄附状。建武元甲戌年四月とあり。
經文。源信光卿書寫し給ふ由なり。
御嶽山社頭由来記。来由の大略は前に鈔出せり、巻末に元和八壬戌年九月、濱名左京允兼胤大中臣吉郷とあり。
鳥居。貧乏山の下當村と柚木村との境にあり、石にて作る、兩柱の間一尺、高さ一丈一尺、御嶽山の三字を扁す、これを一の鳥居と呼べり、ここより社前までおよそ五六町程あり、御嶽山碑。一の鳥居の内にあり、銘文左に録す。(銘文省略)
黒門四ケ所。一は琴澤川の東岸にあり、一は北の口瀧本通り正覺寺の邊にあり、一は二の鳥居の前、一は南の口養澤通り山の入口にあり、四ケ所ともに高さ一丈二尺、柱間一丈許の冠木門なり。
下馬札。一の鳥居の前にあり、往古より建来りしを、元禄十三年本社以下御修造の時あらためてたてられしと云。
木鳥居一基。社頭を隔ること凡二町ばかりにあり、艮向にて高さ一丈五尺、これを二の鳥居と呼べり。
樓門。二鳥居を入て正面にあり、檜皮葺にて高さ二丈七尺、横六間半、幅四間半、左右に金剛力士二軀ををき、樓上に東國社稷總社御嶽山の九字を扁せり。
銅鳥居。樓門を入て正面にあり、高一丈二尺、兩柱の間二間餘、武蔵國號社の扁額あり、これを三の鳥居と呼べり。
撞鐘樓。樓門の左にあり、鐘の圓徑二尺二寸、近き年の鑄造なれば、銘文は略してここに載せず。
鐘樓。本社より東北にあたりてあり、三間に三間半、鐘の長三尺、圓徑二尺五寸、銘文あり、左に載す。
敬白 金峰山
奉鑄金峰山槌鐘
右志者、爲天地地久、、御願圓満、乃至法界衆生平等利益也。
徳治二年丁未十一月廿七日
大檀那壬生氏女納之
大工 行重
   播磨権守利重
この鍾樓の背後に東照宮の御宮あり、檜皮葺高欄造りなり、すべて御紋散しにして、廻り三間四方朱塗りの瑞籬を構へり。
神輿殿。本社の後背右の方にあり、二間半に三間、神輿は御紋散なり。
石燈籠一基。本社の後背にあり、竿石に銘あれど漫滅して定かには讀がたし、福田次郎遠之末葉、武州三田領長淵郷二俣尾村住人、福田半兵衛賴遠世慶長三巳丑五月吉日の數字ほのかにみゆ、されど三年は戊戌なり、疑ふべし、この石燈籠の邊に高さ五尺餘の石標あり、奥院征夷高祖神社、從是十八町の十三字を刻す。
末社
地主社。本社の後にあり、【延喜式】神名帳に出せる大麻止乃豆天神にして、神明を配祀せりといへり。されば最古き神社にて、御嶽の鎮座以前よりの神なるにより、地主とは稱するなるべし、されど今は末社のごとくなりたり。
籠守明神社。本社の右にあり、神體は甲冑の女體、小兒を懐きし木の坐像一尺八寸ばかり、神功皇后なりとも、或は句々幡淺々媛命なりとも云。
勝手明神社。同じ並びにあり、神體は甲冑をつけし武矢の木像にて、長一尺八寸、受鬘命をいはえりと云。
惠比須大黒相殿。本社の左にあり、社前に鐡にてたはらの形に造れる長二尺五寸、徑一尺五寸ばかりなるものあり、そのかたはらに銅板を附て、それに武州杣郷金峯山神主濱名助六郎吉胤代、當國柏原大工神田圖書、作者斎藤六郎兵衛也、願主助左衛門、慶長十五年庚戌九月五日と鐫り。
八所相社。同じ邊にあり、三尺に四間、雷神・風神・山神・役行者・宇賀神・辨天・三嶋明神・春日明神の八座を祀す。
風神社。是も本社の後にあり、小祠。
火神社。前に同じ。
巨福社。同じ邊にあり、大国玉命を祝ひまつれり、近郷の人是を耕作神と呼びて、社前の土を請持ゆきて、田畑へほどこせば、必五穀豊熟すと云、又報賽には其郷里の土を持来り奉納せり。
愛宕社。本社の西一町許にあり、小祠。
稲荷社。樓門を入て右の方に三祠ならびて立、一は金富理稲荷と號し、一は藤本稲荷、一は柳稲荷と號せり、共に稱號のおこりを詳にせず。
疱瘡神社。二の鳥居の下右の方にあり、祭神菊理姫命、木の坐像長一尺八寸。
富士淺間社。本社の北八町許を隔て富士峯と云處にあり、小社。祭神は木花開耶姫命、木の坐像長一尺餘、源賴朝建立する社なりと云、例祭は四月初申の日を用ゆ。
熊野社。本社の東南大久野村の境にあり、小社にして上屋あり。
山王社跡。樓門の右にあり。
釋迦堂。二の鳥居の下右の方にあり、三間半四方、木の坐像長一尺六寸許を安す。
観音堂跡。鍾樓の左にあり。
大宮司。金井氏なり。
御師三十三軒。大宮司の住居の邊より二の鳥居近き處までに散住せり、鈴木・島崎・服部・久保田・黒田・馬場・片柳・須崎・橋本・秋山・勤矢・原嶋・高名・岸野・林・尾崎・俵坊を氏とせるものなり、この餘百姓にて禰宜を兼るもの十五人、いづれも山の下に住せり。(新編武蔵風土記稿より)

東京都神社名鑑による武蔵御嶽神社の由緒

神社本庁包括団体でないため記載なし。(東京都神社名鑑より)

「青梅市史」による武蔵御嶽神社の由緒

武蔵御嶽神社 (旧府社) 旧三田地区の御岳山に鎮座する。祭神は櫛眞智命・大己貴命・少彦名命で、例祭は五月八日である。創建は崇神天皇七年(前九〇)と伝えられ、社伝によると、景行天皇五十三年勅祭があり、聖武天皇の天平八年(七三六)、僧行基が蔵王権現を安置したと伝える。古くから関東の霊山として尊崇され、延喜式神明帳に多摩八座の一「大麻止乃豆乃天神社」とあるのは当社のことであるといわれる。
境内出土の布目瓦などにより、平安時代に社殿の建立が認められ、徳治二年(三一〇七)に壬生氏、延文・応永年聞に関東管領より、また永正八年(一五一一)三田氏、慶長十一年(一六〇六)、元禄十三年(一七〇〇)には徳川幕府によって、それぞれ社殿の造営がなされている。
中世以後は、御嶽蔵王権現と称されていたが、明治七年に社号を御嶽神社と改称した。また同時に神奈川県社に列し、その後、東京府になって府社と改正された。さらに昭和二十七年神社本庁の包括を離れ単立の宗教法人、武蔵御嶽神社と改称した。農耕の神として長い間関東一円の農民の信仰をあつめた。天正十八年(一五九〇)、徳川氏より三十石の朱印状が下され、境内は七町五反余(七四、二五〇平方㍍)で杉櫓の巨木が立ち並び、森厳の気に満ちている。
社宝は、国宝として赤系威鐘一領、金覆輪円文螺銅鏡鞍一兵。重要文化財として紫裾濃鎧、鍍金長覆輪太刀、宝寿丸黒漆輪太刀。重要美術品として御嶽神社旧本殿、慶長十五年在銘の鉄製俵、正中在銘の宝寿丸太刀。都有形文化財として建武五年在銘の鰐口、そのほか具足、馬具、刀剣類など数十点を所蔵している。また、太々神楽は都の無形民俗文化財に指定されている。
本殿は神明造りで、拝殿、幣殿は権現造り、玉垣、唐門、随神門、額殿、鼓楼、手水合、大鳥居、銅鳥居、社務所宝物殿(鉄筋コンクリート造二階建)等がある。また、平成五年三月、神楽伝習殿が竣工し、つづいて同六年三月、石の間の覆舎が完成した。境内は市史跡に指定されている。(「青梅市史」より)

境内掲示による武蔵御嶽神社の由緒

武蔵御嶽神社由緒
社伝によれば、創建は第十代崇神天皇七年と伝えられ、第十二代景行天皇の御代日本武尊御東征のみぎり、難を白狼の先導によって免れ遁れられたといわれ、古くより関東の霊山として信仰されて参りました。
平安時代の延喜式神名帳には、大麻止乃豆天神社(おおまとのつのあまつかみのやしろ)として記されております。
山岳信仰の興隆とともに、中世関東の修験の一大中心として、鎌倉の有力な武将たちの信仰を集め、御嶽権現の名で厄除・延命・長寿・子孫繁栄を願う多くの人達の参拝によって栄えました。
天正十八年徳川家康公が関東に封ぜられますと、朱印地三十石を寄進され、慶長十一年大久保石見守長安を普請奉行として社殿を改築、南面だった社殿を東面に改めました。人々の社寺詣でが盛んになると共に、世に三御嶽の1つとして、御嶽詣も、武蔵・相模を中心に関東一円に拡がり、講も組織され、現在に及んでおります。
明治維新により、御嶽神社の社号となり、更に昭和二十七年武蔵御嶽神社と改めました。(境内掲示より)


武蔵御嶽神社所蔵の文化財

  • 赤糸縅大鎧(国宝:平安末期)
  • 金覆輪円文螺鈿鏡鞍(国宝:鎌倉期)
  • 紫裾濃大鎧(重文:鎌倉期)
  • 宝寿丸黒漆鞘太刀(重文:鎌倉期)
  • 鍍金長覆輪太刀(重文:鎌倉期)
  • 宝寿丸太刀(重美:鎌倉期 正中在銘)
  • 鉄製丸太刀(重美:慶長十五年 西暦一六一〇年)
  • 鰐口(都有形文化財 建武五年 西暦一三三八年)
  • 旧本殿(都有形文化財 永正八年 西暦一五一一年)
  • 太々神楽(都有形文化財)
  • 境内全域(市指定史跡)

御嶽神社旧本殿

武蔵御嶽神社は古くから人々に崇拝され、毎年数十万の参詣者が訪れています。社殿は古くから建立されていたと推定され、徳治二年(一三〇七)には壬生氏によって社殿の造営が行われているのをはじめ、関東管領家、三田氏、徳川幕府によって造営が行われてきました。現在の本殿は神明造で明治一〇年(一八七七)に造営されたもので、それまで使用されていたのがこの旧本殿の常盤堅盤社です。この旧本殿は、都内では数少ない室町時代の様式を持つ本殿建築の一つです。社殿は一間社流造、桧皮葺型銅板葺で、間口二・五m、奥行二・一四m、基壇は壇正積です。屋根には鬼板付箱棟に千木と堅魚木を載せます。彩色は黒漆塗を基調とし、弁柄漆塗、金箔押を用いるほか、飾り金物を多用した華麗なもので、公儀普請を反映した第一級の本殿建築です。(東京都教育委員会掲示(境内掲示より)

武蔵御嶽神社の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 東京都神社名鑑
  • 「青梅市史」