青渭神社|青梅市沢井の神社、旧郷社

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青渭神社|崇神天皇御代創建の伝承、延喜式内社の論社、旧郷社

青渭神社の概要

青渭神社は、青梅市沢井にある神社です。青渭神社の創建年代等は不詳ながら、崇神天皇の御代の創建と伝えられ、惣岳山頂近くにある真名井と称する霊泉(別名青渭の井)から社名が起ったといい、延喜式神名帳所載の青渭神社は当社だといいます(註:調布市の青渭神社と共に論社)。源経基をはじめとして三田、北条、徳川と厚く崇敬を受け、明治6年郷社に列格していました。

青渭神社
青渭神社の概要
社号 青渭神社
祭神 大国主命
相殿 -
境外社 真名井神社、愛宕神社、金山神社、神明神社、八幡神社、稲荷神社、天満社、二荒神社、鹿島神社、春日神社、日吉神社、竜田神社、浅間神社、八雲神社、諏訪神社、三島神社、箱根神社、氷川神社、白山神社、伊豆那神社、熊野神社、厳島神社、山神社、御嶽神社、住吉神社、香取神社、羽黒神社
住所 青梅市沢井3-639
祭日 4月18日
備考 -



青渭神社の由緒

青渭神社の創建年代等は不詳ながら、崇神天皇の御代の創建と伝えられ、惣岳山頂近くにある真名井と称する霊泉(別名青渭の井)から社名が起ったといい、延喜式神名帳所載の青渭神社は当社だといいます(註:調布市の青渭神社と共に論社)。源経基をはじめとして三田、北条、徳川と厚く崇敬を受け、明治6年郷社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による青渭神社の由緒

(澤井村)青渭神社
除地山林一町五段四畝廿二歩、村の北大丹波村の山堺にあり、山上へ登ること十八町山路曲折す、社説に云總嶽は山の名なり、故に總嶽山青渭神社と號すと云、門は道のほとりにあり、神主を宮野若狭といふ、入間郡北野村栗原左衛門が配下なり、本社六尺に九尺巽に向ふ、昔は拝殿及び鳥居などありしも、先年火災にかかりしより今に至るまでなを再立に及ばず、抑當社は【延喜式神名帳】に載る所にして、祭神は大巳貴尊と云、されど古き記録の徴とすべきことあるにもあらず、又たしかに口碑に殘りたることもあらざれば、正しくそれとも云がたし、承平四歳次甲午仲春十八日記せしと云縁起あれど、年代あはずうたがはしきことのみにてとるにたらざれど、古きものなれば全くすてんもほいなし、其中青渭と社號を命ぜしよしあり、是もうけかひがたき説なれど、暫くそのあらましを記して一説にそなふ、
昔人皇六十一代朱雀院の御宇、下總國にて平将門王命にそむき、自僭して親王の稱す、ときに鎮守府将軍源経基武州の守護たりしかば、追討の勅をうけたまはり、軍旅を發して當國に下り、先多磨川の邊りをすぎたもふとき、水色俄に變じて藍の如くなりしかば、将軍奇異の思をなし、此所に暫くたたずみたもふに、此神社のほとりより忽然として一人の童女現はれ出、将軍に向て君此度東國の逆亂を追討したまふ靈神の擁護あるなれば、勝利疑なしと云、それより進發して遂に将門を追伏したまふ、しかるに當社いまだ定まれる社號なければ、かの河水の瑞兆にとりて青渭神社と崇めたまふと云々、されど【延喜式】は延長五年十一月左大臣藤原忠平等が上りし所なれば、天慶三年将門誅伏の年よりは十年餘も前のことなるに、此縁起によつて見るときは、此時始て社號を命ぜしと云、且この縁起いよいよ承平四年に撰せしものなれば、是又将門追討より前に記せしものなり、かかる信じがたきことのみを取にたらざれば、其全文を略しぬ【式内神社考】には青渭の神社は澤井村にありといへり、今按に渭の字多くぬまと訓するときはあをぬまといふにや、又あをゐの神社といふべきにや、土人は青なみと號すといふ、郡中深大寺村深大寺境内に青波天神といふあり、是青渭の神社なり、然るに青波と稱する謂れは、社前に池ありて青波常に社邊にただよへば、いつとなく彼の字に書かへたるなりと、これもうきたる説なれば信じがたし、かくまちまちなれど、いづれも明證なければいかにとも今よりは定めがたし、例祭は十八日にて、二月・六月・九月、一ヶ年に三度あり。(新編武蔵風土記稿より)

東京都神社名鑑による青渭神社の由緒

以前は青渭大名院、惣岳大明神と称し、惣岳山上に鎮座している。惣岳とは近傍の各神社を総管する意味から名ずけられたという。山頂近くに真名井と称し、一年中涸渇することのない霊泉があり、別名青渭の井とも称され、社名の基となっている。創建の年月は不詳だが、社伝によれば崇神天皇の御代の創建という。そのご『延喜式神名帳』に所載され広く崇敬を集めた。承平年間(九三一-三八)源経基任国の時も深く崇敬し、社殿を経営したという。くだって三田、北条、徳川と厚く崇敬され、社の経営に尽力した。このことは、数名の巫女が奉仕していたといわれる。現在、山頂近くに「いちこの墓」なるものがあって、三基の板碑がある。このうち一基には建武四年(一三三七)の年号がある。慶長八年(一六〇三)社殿焼失。神宝、社記等を失った。さらに二度の火災により社記、古文書類はことごとく焼失した。現在の本殿は弘化二年(一八四五)の再建。明治初期のころより山麓に拝殿が建てられ祭事は多くここで行われるようになった。昭和九年、拝殿を改築して現在の形となった。(東京都神社名鑑より)

「青梅市史」による青渭神社の由緒

青渭神社
旧三田地区の沢井上分(現・沢井三丁目)の惣岳山に鎮座する。祭神は大国主命で、現在は真名井神社を除き二十六社を本殿内に合祀する。例祭は三月十八日である。
創建は社伝によれば崇神天皇の御代と伝える。古くは青渭明神といい惣岳山頂近くに真名井と称する年中涸渇することのない霊泉があり、これを別名青渭の井ともいい、これが社名の起因となったと伝える。また別に惣岳大明神ともいうが、これは惣岳山(標高七四二メートル)頂に鎮座していることからの呼称である。惣岳という名は『武蔵演露』によれば「此山を中華の五嶽に此す、日く東高水、西大嶽、南光明、北惣岳、中御嶽」とあって、「近傍の諸山を総管するの義なり」とある。延喜式所載の「青渭神社」は当社であるといわれている。承平年間(九三一~九三七)、源経基任国の時も深く崇敬し、社殿を造営したといわれ、その後三田、北条、徳川氏と代々崇敬され、慶長年間(一五九六~一六一四)の沢井村検地帳にも除地一町五反余と記載されている。
最盛期には数名の巫女が奉仕していたといわれlる。現在、山頂近くに「いちこの墓」というのがあり、ここに三基の板碑が残され、その一基には建武四年(一三三七)の年号がみられる。本社は都道から二キロメートル余り登った山頂にあったが、明治の初期に山麓、横尾子の地に拝殿を設けて遥拝殿としたため、現状ではここが本殿で、山上は奥の院という形になっている。現在の本殿は弘化二年(一八四五)の再建で、明治六年に郷社に列格した。昭和九年に拝殿を改築して現在の形となり、さらに昭和三十五年に本社(各殿の総称)を改修し、その際に二十六社を合祀した。境内面積は二、六二八坪(八、六七二平方メートル)である。(「青梅市史」より)


青渭神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 東京都神社名鑑
  • 青梅市史