金剛寺|青梅市天ヶ瀬町にある真言宗豊山派寺院

猫の足あとによる多摩地区寺社案内

青梅山金剛寺|真言宗檀林所、多摩八十八ヶ所霊場、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所

金剛寺の概要

真言宗豊山派寺院の金剛寺は、青梅山無量寿院と号します。金剛寺は、承平年間(九三一~九三七)、平将門は当地に来て、馬の鞭としていた梅の枝を地にさし「我が望み叶うなら根づくべし、その暁には必ず一寺建立奉るべし」と誓ったところ、この枝は見事に根を張り葉を繁らせたことから、京都蓮台寺の寛空僧正に開山を請たものの寛空は辞退、自刻の弘法大師像を送り、寺名を空海の灌頂号「遍照金剛」にちなみ「金剛寺」と、安置された将門の念持仏・阿弥陀仏(別名、無量寿仏)から無量寿院と号したといいます。頼遍上人が元亨年間(1321-1323)中興開山、徳川家康が関東に入国した天正19年(1591)には本寺格として寺領20石の御朱印状を拝領、真言宗檀林所として末寺25ヶ寺を擁していたといいます。多摩八十八ヶ所霊場47番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所54番、東国花の寺百ヶ寺です。

金剛寺
金剛寺の概要
山号 青梅山
院号 無量寿院
寺号 金剛寺
住所 青梅市天ヶ瀬町1032
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



金剛寺の縁起

金剛寺は、承平年間(九三一~九三七)、平将門は当地に来て、馬の鞭としていた梅の枝を地にさし「我が望み叶うなら根づくべし、その暁には必ず一寺建立奉るべし」と誓ったところ、この枝は見事に根を張り葉を繁らせたことから、京都蓮台寺の寛空僧正に開山を請たものの寛空は辞退、自刻の弘法大師像を送り、寺名を空海の灌頂号「遍照金剛」にちなみ「金剛寺」と、安置された将門の念持仏・阿弥陀仏(別名、無量寿仏)から無量寿院と号したといいます。頼遍上人が元亨年間(1321-1323)中興開山、徳川家康が関東に入国した天正19年(1591)には本寺格として寺領20石の御朱印状を拝領、真言宗檀林所として末寺25ヶ寺を擁していたといいます。

新編武蔵風土記稿による金剛寺の縁起

(青梅村)金剛寺
小名天ヶ瀬にあり、青梅山無量壽院と號す、眞言宗新義山城國御室御所仁和寺の末、天正十九年十一月御朱印寺領二十石を附せらる、末寺二十五院を統、縁起に據に承平年中平将門この地に佛縁を結び、一枝の梅をさして我願成就あらば榮ふべし、しからずんば枯よかしと誓ひしに、其枝果して新芽を抽て枝葉年を逐て繁茂せり、将門誓ひの驗ありしを喜て、當村に佛閣を剏立し、京洛蓮臺寺の寛空僧正を請て開山にあてられしとせしかど、寛空頗にこれを辭し、弘法自作の遺像を此地に下して開祖に擬し、寺を金剛と名け、又更に将門護持の彌陀を安置して、無量壽院と號せしとぞ、かのさす所の梅實を結て後、成熟の時を歴るといへども常に青色を存して標落せず、世人奇異の思をなし、是より地をも青梅と呼べりと、本堂に将門平親王朝臣代代尊靈と題せし位牌あり、その背に新王の輿を立られしは、山中棚澤なり、因て其地に宮を置て先代より敬禮す、三田の先祖七十四代まで恙なかりしに、永禄六年弾正少弼綱秀死して後滅亡し、野口許りは生殘り、今八十九歳に及ぶ、まま靈牌を作りて三田の菩提所に納るよしを俗文にて筆し寛永四年八月吉日野口刑部少輔秀房松月題せりとあり、秀房この位牌を納るとき、凡三基を作り、餘の二基は二俣尾海禅寺根加布村天寧寺に置、皆一様のものなり、本堂七間に八間、本尊不動を安す、村民白不動と云、十方正面不背の畫像、智證大師の筆、寛空の所持せしものと云、常に秘して人にしめさず、三十三年に一たび開扉す。
護摩堂。二間四面。
辨財天社。小祠。
鐘楼。八尺四方寛文六年鑄造の鐘をかく。
青梅。一株庭前にあり、高凡九尺餘、繁延五間四方に及ぶ、枝たれて地を距ること纔に三尺餘、往古の梅樹は枯たるにて神體をきざみ稲荷社を置り、昔は傳説の如く梅實常に青色をおびて標落せず、翌年花の時に及てなを恙なく、新に實結ころ始て枝を辭せしが、近来保ちあしくして散落するもの多しと云。
寺寶。
弘法大師自刻木像一軀。坐像長五寸許、寛空おくりて當山の開祖に擬するもの。
彌陀一軀。平将門守護の本尊、胎蔵にありと云。
四所明神四軸、弘法大師の筆、一は高野明神或は狩場明神ともいふ、一は丹生明神丹生津妃、一は越前國氣比明神、一は安藝國嚴島辨天なり。
如意輪観音一軸。上宮太子の筆。
般若十六善神一軸。筆者詳ならず、相傳へて、天竺善無畏の筆といふ。
兩界曼荼羅一軸。是も善無畏の筆といふ。
四面器一顆、五鈷一顆。縁起に據に、この二品は弘法大師唐山より持来りしものにて、京都神護寺の什物なりしを、北條氏直小田原に於て僧良深に命じて護摩修行有し時、神護寺よりこひて其具に用ひしといふ。良深は當山の住職たりしによりて寺寶となれり。
鉢形北條の文書一通(新編武蔵風土記稿より)

「青梅市史」による金剛寺の縁起

金剛寺(青梅山無量寿院)
青梅・天ヶ瀬にあり、新義真言宗豊山派長谷寺末の、もと中本寺である。本尊は伝智証大師筆の「白不動明王画像」で、名品三不動(高野山赤不動、三井寺黄不動、青蓮院青不動)に次ぐ仏画といわれ、三十三年に一度の開帳という秘仏である。
さて、広大な秩父多摩国立公園の東入口部一帯には将門伝説が多い。棚沢(奥多摩町)には将門の子・将軍太郎が天慶の乱後、天徳年間(九五七~九六○)にそこに来て父・将門を祀ったという社跡があり、川井・尾崎(奥多摩町)は家臣尾崎十郎の柵館のあったところ、御岳・浜竹も同じく浜竹五郎の屋敷跡と伝える。ともあれ平将門の生地は茨城県岩井であり、活躍舞台は千葉県北部から茨城県南部である。なぜ、このように奥多摩に分布したか。一つは将門戦死後、敗軍の将士が相当数こうした山中に隠れたものと考えられる。関東平野から北総一帯ではどうにもならないが、この辺なら格好の隠れ地であったろう。もう一つは、将門の後胤と自称する三田氏一族が大いに英雄将門を崇拝した故であろう。三田一族の活躍は鎌倉から室町期にかけて数百年に及び、その期間に将門伝説は定着したと推定される。青梅の地名の起源となったと伝える金剛寺の梅(都指定天然記念物)もその例である。
承平年間(九三一~九三七)、将門はこの地に来て、馬の鞭としていた梅の枝を地にさし「我が望み叶うなら根づくべし、その暁には必ず一寺建立奉るべし」と誓った。後この枝は見事に根を張り葉を繁らせたので、誓いを守って京都・蓮台寺の寛空僧正に開山を請うた。しかし頻りに辞退した寛空は自刻の弘法大師像を送り、寺名も空海の灌頂号「遍照金剛」にちなみ「金剛寺」とした。安置された将門の念持仏・阿弥陀仏(別名、無量寿仏)から無量寿院と号したという。だが、この梅は成長して実を着けてもいつまでも青く、熟すことがなく、これを奇として村を青梅と改めたと伝えている。
元亨年間(一三二一~二三)頼遍上人が再興し、よって上人を中興開山第一世と称している。永禄・天正(一五五八~一五九一) のころ第八世良深に至り小田原北条氏の帰依を受け寺勢を極めた。永禄五年(一五六二)六月北条氏から「寺領前々の如く寄進する、塩船寺と青梅両寺境内を無税とする」旨の安堵状(市有形文化財)が寄せられ、さらに天正十九年(一五九一)徳川氏より本寺格として二十石の朱印状が寄せられた。
天保十二年(一八四一)火災により、現存の僧正門(都有形文化財)、鐘楼を残すだけの惨状を呈したが、簡誉和尚の代、滞上長右衛門他の浄財にょり文久元年(一八六一)十二月、現在の諸堂字が落慶した。また惜しくも火をかぶった「将門誓いの梅」も差木してあった青梅・滝の上の滝上宅から移植されたという。
宝物館収蔵の 「絹本着色如意輪観世音像」(国指定重要文化財)は鎌倉時代の作、宝冠六臂、彩色の極めて精緻な筆致である。また「絹本着色高野四所明神画像」は南北朝期の作で唐風の四神像であり、「絹本田辺清右衛門惟艮画像」とともに都有形文化財である。
小田原北条氏寄進の南宋・竜泉窯の青磁「雨乞の鉢」の他、幾多の典籍のうち「シッタン反音私抄」「灌頂文要集」「三宝院伝法潅頂聞書」「金剛寺聖教」など(いずれも都有形文化財)がある。なお、三田氏最後の家臣野口刑部丞秀房の納めた「三田氏位牌裏書」は市有形文化財である。
寺域も市史跡に指定されており、田辺清右衛門の墓もある。江戸時代には京都・仁和寺末の檀林として末寺二五寺を統べ、市内九か寺(現在五か寺)、他は北多摩郡および埼玉県狭山市にまで分布している。
金剛寺五十七世・杉本亮誉(昭和十九年一月三日寂、九十一歳)は嘉永七年、武州狭山村(現・東大都市)に生まれ、金剛寺に入り、のち大和長谷寺に学び、昭和十一年、真言宗豊山派管長となった。続いて五十八世・築山定誉(新宿区淀橋、明治四十一年六月十四日生)も昭和五十五年、推されて同派管長の猊座に就いた(平成四年六月七日八十三歳遷化、七月二十五日宗葬)。(「青梅市史」より)


金剛寺所蔵の文化財

  • 金剛寺表門(東京都指定有形文化財)
  • 金剛寺の青梅(東京都指定天然記念物)
  • 絹本着色如意輪観世音像(国指定重要文化財)
  • 絹本着色高野四所明神画像(東京都指定有形文化財)
  • 絹本田辺清右衛門惟艮画像(東京都指定有形文化財)
  • 竜泉窯の青磁雨乞の鉢(東京都指定有形文化財)
  • シッタン反音私抄(東京都指定有形文化財)
  • 灌頂文要集(東京都指定有形文化財)
  • 三宝院伝法潅頂聞書(東京都指定有形文化財)
  • 金剛寺聖教(東京都指定有形文化財)
  • 三田氏位牌裏書(青梅市指定有形文化財)
  • 北条氏よりの安堵状(青梅市指定有形文化財)

金剛寺表門

真言宗豊山派青梅山無量寿院金剛寺は平将門の創立と伝えられますが、元享年間(一三二一〜二四)に再興され、三田氏、小田原北条氏の帰依を得た古刹です。この表門は、天保二年(一八三一)の火災の際に、金剛寺の諸堂宇の中で唯一焼失を免れた建造物です。明治の初期に街区の整理により現在地に移築され、その際に屋根、礎盤(石造または木造の繰形を呈する柱と礎石の間に据えるもの)などが改変されていますが、旧状をよく保っています。構造は一間(二・七五m)の間口に、出入り口が一つの一間一戸の四脚門で、屋根は切妻造、瓦棒銅板葺です。二本の主柱から一・〇六m離れた門の外側と内側に四本の控柱を設けています。門の主柱と控柱をつなぐ頭貫の木鼻と拳鼻部分に彫られた渦文様の上に鳥が飛ぶような絵様と呼ぶ装飾は、桃山時代の技法を伝えているといわれます。この絵様から、表門が建立されたのは一七世紀前半ないし中頃と推定されています。この表門は小型で簡素な門ですが、江戸時代後期の、彫刻を多用する建物とは異なった趣があります。(東京都教育委員会掲示より)

金剛寺の青梅

平安時代に活躍した平将門の伝説を持つ古木であるが、現在では完全に老衰期にある。
この梅は季節が過ぎても黄熟せず、落実まで青く、このため「青梅」と称せられ、青梅市の名称もこれによって付けられたといい、いわば青梅市の象徴でもある。
しかし、植物学的には突然変異であるとされているが、滝上氏所有の梅もこの種の「青梅」だと言われている。(東京都教育委員会掲示より)

金剛寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「青梅市史」