妙義神社|豊島区駒込の神社

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妙義神社|豊島区駒込の神社

妙義神社の概要

妙義神社は豊島区駒込にある神社です。妙義神社は、日本武尊が東征の際当地に陣営をしき、のち白雉二年(651)五月に社を建てて白鳥社と号したといいます。武神として崇敬を集め、太田道灌が戦の前に祈願をし連勝を収めたことから「戦勝の宮」とも称されたといい、太田道灌奉納の品も江戸時代には残っていたといいます。

妙義神社
妙義神社の概要
社号 妙義神社
祭神 高御産霊神・日本武尊・神功皇后・応神天皇
相殿 -
境内社 道灌霊社
住所 豊島区駒込3-16-16
その他 -



妙義神社の由緒

妙義神社は、日本武尊が東征の際当地に陣営をしき、のち白雉二年(651)五月に社を建てて白鳥社と号したといいます。武神として崇敬を集め、太田道灌が戦の前に祈願をし連勝を収めたことから「戦勝(かちいくさ)の宮」とも称されたといい、太田道灌奉納の品も江戸時代には残っていたといいます。

新編武蔵風土記稿による妙義神社の由緒

(上駒込村)妙義社
祭神日本武尊、左は高産霊神、右は神攻皇后・応神天皇、凡四座皆白幣を神體とす、社傳曰、日本武尊東征の時此所陣営となる、後社を建て白鳥社と号す、白鳳二年官人日奉部年雄下向して祀を奉せしと云、按に武蔵風土記豊島郡日頭白鳥神社、白雉二年辛亥五月所祭日本武尊也、神貢五十三束三毛田と載す、白鳳は白雉の誤にて、此風土記に掾て設し説ならん、殊に鳥越明神。妻戀稲荷も祭神日本武尊にて、白鳥神社の由傳ふれば、何れを是とも定かたし、又云文明三年五月足利成氏古河より葛西に出張して、上杉と対陣、然に上杉は鎌倉に退て長尾太田等同六月古河を攻落し、成氏千葉に奔走す、此出陣の前太田道灌当社に神馬寶劔を捧て祈念し、
雲拂ふ此神垣の風の音 道灌
草をも木をも吹しほり行 兼信
兼信は道灌か近臣樋口與三郎なり、凱旋の後社領十五貫文を寄附す其時の詩云、
秋風靡雲社前庭、一皇戎凶賊平、月光不倣暉神武、千歯赦乎奉威明
文明九年春道灌豊島勘解由左衛門と戦ひ、同十一年春千葉孝胤を攻の時も、当社にて牛込赤城の僧圓勧稲附普門院開山宥鎮等、怨敵降伏の法を修して合戦戦利あり、其後大永中江戸城代遠山丹波守修補す、永禄十二年武田信玄当国乱入の時守護富永神四郎財を棄て修補す、天正年中松田尾張守康秀か計として社領悉没収す、其後衰廃せしを寛永中代官野村彦太夫再建す、相殿神明宮昔の地頭今井弥平四郎茂義と云人の祀る所なり、茂義は上野の人なり、永享中に忠功ありて上杉憲実此地を與ふ、同十一年八月本国新田郷神明村の神明宮を当所新恩の地に移し祀ると云、神體天照太神荒御魂木の立像長一尺二寸八分、左に宝珠右に寶劔を持、又別に相殿一座天満宮太田道灌を祀る、神體は筑紫天拝山の青石也、長一尺余圍一尺六寸富永神四郎も崇信し、永禄中に社修造の時神明を左とし天満宮を右として祀ると云、又太田道灌の木像あり、長二寸八分束幣の姿なり元亀年中の棟札存す其図左の如し、(図省略)
社寶
刀一腰、菊一文字の作と云、錆て銘字読へからす、菖蒲作りなり長さ三尺二寸太田道灌寄附すと云。
木印一顆。八角面径一寸五分松蔭印と云傳ふ、印文滅して読へからす、相傳ふ観應年中護国親王寄附せらると、護国は宗良親王の御事にて守邦親王にはあらすと云。
尊意僧正像一体。運慶の作と云長二寸八分、右手に羽扇を持左手に念珠を掛け、脊に翼あり、天満宮社傳曰法性坊尊意僧正は、延暦寺十三代の座主にて菅公祈の師なりと。
千手観音像。木像なり、長二寸、文明年中太田道灌戦陣に臨まんとして、僧圓勧宥鎮二人に修法を命せし時の本尊なりと云作しらず。
曲玉十六顆。
鏡一面。圓鏡径三寸六分に和歌を刻す、増鏡掛てそ頼む神風の吹起すへき名をも家をも、三楽斎とある、させる古物ともみえず。
板碑一枚。長八寸余の断碑なり、暦應□□□八月日白鳥宮と彫る、是恐らくは後人のものせしなるへし。
幣殿。
拝殿。勝軍宮の三字を扁す。
末社。
稲荷庚申、寛永寛文の碑二あり是を神體とす。
天王、点曲津日神を祀る、相殿に健日命健熊命を祀る、是を弓箭社劔刀社と号す、俗には二座を眷族社と呼て一神を二座に祀るとも云り。
月社、太田氏家人十二名月待の碑を神體とす。
神主若林熊王。神職昔は日奉氏小膝太郎とて西薫の族なり、管領家の頃は南薫と称し、又南一揆ともいへり、戦争の世姓名を変して稲葉左衛門と改む、然に熊王か先祖若林大膳相州川村より来て神職となる、寛永年間の事なり、夫より世々相続すと云、京都吉田家支配。(新編武蔵風土記稿より)

豊島区教育委員会掲示による妙義神社の由緒

当社の祭神は、高御産霊神・日本武尊・神功皇后・応神天皇である。文政十一年(1828)に成立した「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、日本武尊が東征の時にこの地に陣営をしき、のち白雉二年(651)五月に社を建てて白鳥社と号したという。これによれば、区内最古の神社ということになる。
くだって文明三年(1471)五月、足利成氏との戦いを前にした太田道灌は当社に参詣し、神馬・宝剣を捧げて戦勝を祈願した。その際、「雲払ふ 此神垣の 風の音」と連歌を詠み、この戦いでは、成氏を敗走させたという。
続いて道灌は、文明九年の豊島勘解由左衛門との戦いの際、さらに同十一年の千葉孝胤攻略の折にも戦勝祈願に当社に参詣したといわれている。こうした故事から、「戦勝(かちいくさ)の宮」とも呼ばれて信仰を集めた。その一方で、大永年間(1521-27)には江戸城代遠山丹波守が、また永禄十二年(1569)には守護富永神四郎が当社を修理したものの、天正年間(1573-91)に松田尾張守康秀が社領を没収したのち衰廃するなど、当社にとって戦国時代は波瀾の時期でもあった。
境内には、寛永十九年(1642)十一月に駒込村の農民によって建立された庚申塔が遺されており、当該地域の信仰の拠点となっていたことが推察される。(豊島区教育委員会掲示より)

東京都神社名鑑による妙義神社の由緒

妙義神社
『新編武蔵国風土記稿』に、「社伝日、日本武尊東征の時此所陣営となる。後社を建て白鳥社と号す。官人日奉部年雄下向して祀を奉せしと云ふ」と。さらに同書は文明三年(一四七一)五月以来、太田道灌出陣の度ごとに神馬・宝剣を捧げ、社領十五貫文を寄進し社殿を修築する等、終生守神と崇むと記述している。寛永年間(一六二四-四四)代官野村彦太夫再建のことあり、降って昭和十一年七月東京市が道灌公四百五十年祭を執行するに当り、当社に祭祀料を納めたることがある。(東京都神社名鑑より)


妙義神社所蔵の文化財

  • 庚申塔

庚申塔

「新編武蔵風土記稿」妙義社の項に「末社稲荷庚申・寛永寛文庚申の碑ニアリ、是ヲ神体トス」とありて江戸時代には稲荷として祀られていた事がわかる。
昭和四十年(1965)神社復興工事の際、境内土中より発掘され、社殿左側奥に建立されたが今回の境内整備に伴い現位置に遷された。
尚寛文二年(1662)の碑は戦災で失われたと思われる。(境内掲示より)

妙義神社の周辺図


参考資料