藤林山西福寺|豊島八十八ヶ所霊場62番札所
西福寺の概要
真言宗豊山派寺院の西福寺は藤林山歓喜院と号します。西福寺の創建年代は不詳ながら、新編武蔵風土記稿が編纂された天保元年(1830)の西福寺住職が十三世であったといい、江戸時代初期には既に創建されていたと考えられているといいます。豊島八十八ヶ所霊場62番札所です。
山号 | 藤林山 |
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院号 | 歓喜院 |
寺号 | 西福寺 |
住所 | 豊島区駒込6-11-4 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
本尊 | 木造阿弥陀如来立像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 染井稲荷神社の旧別当寺、豊島八十八ヶ所霊場62番札所 |
西福寺の縁起
西福寺の創建年代は不詳ながら、新編武蔵風土記稿が編纂された天保元年(1830)の西福寺住職が十三世であったといい、江戸時代初期には既に創建されていたと考えられているといいます。
東京都豊島区教育委員会掲示による西福寺の縁起
新義真言宗に属す。藤林山と号し、西ヶ原無量寺の末寺である。創建の年代は明らかではないが、駒込に江戸時代から存在した寺である。
本尊は阿弥陀如来であり、これは徳一大師の作といわれている。
この寺は、江戸時代、大名藤堂家の下屋敷に近く、家中の祈願寺となり、その規模が非常に広大であったといわれているが、明治維新後に縮小された。
境内には、六道すなはち地獄道・飢餓道・畜生道・修羅道・人道・天道について教えを説くための六体の地蔵が刻まれた六地蔵がある。これは明暦元年(1655)に造られたものであり、豊島区内では最古のものである。
墓地には徳川将軍家の御用植木師として名高かった伊藤伊兵衛政武(四代目・宝暦七年=1757没)の墓があり、これは東京都の史跡に指定されている。政武は樹仙と号し、「増補地錦抄」などを著している。また、ダダイストで知られた辻潤の墓もある。(東京都豊島区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による西福寺の縁起
(上駒込村)西福寺
藤林山歓喜院と号す、新義真言宗西ヶ原村無量寺末、本尊弥陀の三尊を安す、開基の年代をしらす現在まて十三世に及ふと云。
稲荷社(註:染井稲荷神社)
身體石像なり、秘して開扉せす、前立稲負老人咜枳尼天像共に木像なり、又伊弉諾尊伊弉册尊共に石像聖天一体皆相殿とす、染井一区の鎮守神なり祭礼九月十一日。
末社。
八幡疱瘡神大黒恵比寿稲荷五座合祀。稲荷三。
地蔵堂。閻魔の像もあり。(東京都豊島区教育委員会)
西福寺所蔵の文化財
- 伊藤政武墓(東京都指定旧跡)
伊藤政武墓
江戸時代の園芸家。政武は江戸の北、染井村(現在の豊島区駒込6、7丁目付近)に生まれた。号を樹仙という。伊藤家は代々伊兵衛を名乗り、近くの伊勢津藩藤堂家の下屋敷に出入りして、庭の世話をしているうちに植木屋となり、江戸第一の種苗商となった。その種苗目録を「地錦抄」という。四代目の政武は江戸城にも出入りして将軍吉宗の御用植木師となり、城内の植木を管理していた。日本の園芸が独自に発達したのは江戸時代であり、キク、ツバキ、カエデ、ツツジ類、アサガオなどの園芸植物が改良され、また、朝鮮や中国をはじめ外国からも多くの植物が輸入されている。政武は特にカエデを好み、深山楓に舶来の楓を接き木することに成功した。
写実的な絵画を得意とし、園芸植物に関する著書に「草花絵前集」「増補地錦抄」「広益地錦抄」「地錦抄附録」などがある。宝暦7年(1757)10月2日81歳で死去した。(東京都教育委員会)
西福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿