三宝寺。横浜市神奈川区台町にある浄土宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

瑠璃光山三宝寺。寅歳開扉武南十二薬師如来霊場

三宝寺の概要

浄土宗寺院の三宝寺は、瑠璃光山と号します。三宝寺は、嘆誉和尚(慶長2年1597年寂)が開山となり創建したといいます。第二次世界大戦で本尊薬師如来立像を焼失、大本山増上寺より本尊を遷座したといいます。寅歳開扉武南十二薬師如来霊場12番です。

三宝寺
三宝寺の概要
山号 瑠璃光山
院号 -
寺号 三宝寺
住所 横浜市神奈川区台町7-1
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考



三宝寺の縁起

三宝寺は、嘆誉和尚(慶長2年1597年寂)が開山となり創建したといいます。第二次世界大戦で本尊薬師如来立像を焼失、大本山増上寺より本尊を遷座したといいます。

新編武蔵風土記稿による三宝寺の縁起

三宝寺
海道の西北の側なり。浄土宗宿の内慶運寺の末、瑠璃光山と号す。開山嘆誉和尚、慶長2年正月8日寂せり。本尊薬師長1尺許の立像なり。縁起の略に云、この薬師は弘法大師一刀三体の作佛なり。弘仁年中諸国尼疫行はれて人民患にたへざりしかば、大師へ勅命ありて六十六体の薬師を刻し、六十六ヶ国に安置せられしかば忽ち病難やみしとなり、当国へ安置せし像は則当寺の本尊なりと云々。又白蛇弁天の像を安ず。此像は蛇骨にて作りしものなり。そのさま白骨にて輪をなしてあり。客殿3間四方。
薬師堂。門外にあり。薬師の長3尺許にして立像なり。ここにて黒焼の薬を制して諸人にあたふ。(新編武蔵風土記稿より)

「神奈川区史」による三宝寺の縁起

旧東海道に面して、往昔この地に薬師如来を安置する小堂があった。『新編武蔵風土記稿』に「コノ薬師ハ弘法大師一刀三礼ノ作仏ナリ、弘仁年中諸国尼疫行ハレテ人民婁ニタヘザリシカバ、大師「勅命アリテ六十六体の薬師ヲ刻ミ、六十六ケ国ニ安置セラシ力バ忽チ病難ヤミシトナリ、当国ヘ安置セシ像ハ則当寺ノ本尊ナリト云々」とあって、本来薬師如来を本尊としたが、大正一二年九月一日の関東大震災に被害を受け、又今次の大戦で堂宇悉く焼失してしまった。
そこで昭和四〇年四月一七日をもって東京芝大本山増上寺寺から同山第八二世椎尾弁匡大僧正の特別の計らいに依り本尊は遷座した。当寺を一層有名な寺院とした住職に第二一世浄誉慶阿上人弁玉和尚がある。長歌を橘守部に、短歌は岡部東平に学んだ歌人。嘉永四年三宝寺住職となった。(「神奈川区史」より)

「横浜市史稿」による三宝寺の縁起

三寶寺
位置
三寶寺は、瑠璃光山と號し、神奈川區靑木町下臺三百九十番地にある。境内は百六十八坪五合。區内飯田町慶運寺の末寺である。
沿革
嘆譽和尙の開基と云ふ。和尙は慶長二年正月八日入寂とあるから、天正・文祿の頃の草創と思はれる。或は云ふ、往時より此地に藥師を安置せる小堂があつたのを、嘆譽和尙が興隆して、一寺となしたのであると。
本尊
本尊は藥師如來立像、高一尺許、弘法大師一刀三禮の作と傳へられてゐる。舊藏の緣起に、「弘仁年中、諸國厄疫行はれて人民患にたへざりしかば、大師へ勅命ありて、六十六體の藥師を刻して、六十六ヶ國へ安置せられしかば、忽ち病難やみしとなり。當國へ安置せし像は則當寺の本尊なり。」と記してあつたと云ふが、事實は疑ふ可きものである。前立は藥師如來坐像で、眷屬は十二神將である。(「横浜市史稿」より)

「神奈川区宿歴史の道」掲示による三宝寺の縁起

三宝寺は、瑠璃光山と号し、浄土宗に属す。慶長2年(1597)に寂した嘆誉和尚の草創である。
弘法大師の作と伝えられる薬師如来立像を本尊としていたが、関東大震災で被害を受け、第二次大戦で焼失した。現在の本尊は、その後、東京芝の大本山増上寺より遷座したものである。
当時で忘れてならない人物として第21世住職弁玉和尚がいる。和歌を橘守部・岡部東平に学んだ弁玉は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した歌人である。(「神奈川区宿歴史の道」掲示より)


三宝寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「神奈川区史」
  • 「横浜市史稿」