瀬戸神社|横浜市金沢区瀬戸の神社

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瀬戸神社|源頼朝が伊豆三島明神を勧請して創祀、治承4年横浜金沢七福神の弁財天

瀬戸神社の概要

瀬戸神社は、横浜市金沢区瀬戸にある神社です。瀬戸神社は、源頼朝が伊豆三島明神を勧請して治承4年(1180)に創祀したといいます。歴代武家の崇敬を受け、天正19年(1591)には徳川家康より社領100石を安堵されたといいます。明治6年郷社に列格、明治11年日輪山円通寺より東照宮を合祀、明治42年近郷の熊野神社、稲荷神社、太神宮、日光社、諏訪神社、山王社、浅間社、白山社の八社を合祀したといいます。また、境内社琵琶島神社は、北条政子が近江国の竹生島の竹生島弁才天を勧請して創祀したものだといいます。横浜金沢七福神の弁財天です。

瀬戸神社
瀬戸神社の概要
社号 瀬戸神社
祭神 速須佐之男命、菅原朝臣道真公
相殿 徳川朝臣家康公、伊邪那岐命、伊邪那美命、速玉男命、倉稲魂命、天照皇大神、味耜高彦根命、建御名方命、猿田彦命、木花咲耶媛命、菊理比売命
境内社 琵琶島神社、青麻呂、左末社、右末社、祖霊社
住所 横浜市金沢区瀬戸18-14
祭日 例大祭5月15日
備考 -



瀬戸神社の由緒

瀬戸神社は、源頼朝が伊豆三島明神を勧請して治承4年(1180)に創祀したといいます。歴代武家の崇敬を受け、天正19年(1591)には徳川家康より社領100石を安堵されたといいます。明治6年郷社に列格、明治11年日輪山円通寺より東照宮を合祀、明治42年近郷の熊野神社、稲荷神社、太神宮、日光社、諏訪神社、山王社、浅間社、白山社の八社を合祀したといいます。また、境内社琵琶島神社は、北条政子が近江国の竹生島の竹生島弁才天を勧請して創祀したものだといいます。

新編武蔵風土記稿による瀬戸神社の由緒

(社家分村)
瀬戸明神社
(社地社領百石の内)、小名瀬戸にあり、鎌倉街道の北側にて江戸の方より瀬戸橋を越て右にあり、本社二間半に三間、幣殿三間に九尺、拝殿三間に二間、南向、前に石の鳥居あり、正一位大山積神宮の八字を扁す、裏面に延慶四年四月二十六日戊辰沙彌寂尹と記す、神體幣束のみにて前立に束帶の坐像を置、社傳に治承四年四月八日将軍頼朝豆州三嶋明神を勧請すといへり、されど【東鑑】に據に頼朝鎌倉に入りしは治承四年十月六日の事にて、四月の頃は未だ豆州北條の館にありし時なれば、當社を勧請すべき由なし、或云年月は詳ならざれど頼朝豆州三島の神を一社勧請せんとて、神名を札に録して海中に投じ、其流着の地に鎮坐せんとて、祈誓ありしが當所へ着岸したりしゆへ、そのまま造立すと、又【鎌倉志】に或人の説として往古此神此地へ飛来り給ふ、今の金龍院の飛石の上に止ると云、例祭毎年四月十一月中の酉日、神輿を琵琶嶋の辨天社まで渡し、神主衣冠にて供奉す、【鎌倉年中行事】に云正月二十九日雪下今宮へ御参詣ありて、直に瀬戸の三嶋大明神へ御社参、又云、四月朔、御祝如例、三島御精進たる間合火以下可有斟酌、方は不被致出仕御一家一人爲御代官別て有、精進、同八日瀬戸三嶋大明神臨時の祭禮、公方様御社参御装束供奉の様體前に如記、社家奉行被参御酒數十献火申、船寄の辨財天神前にて御酒有、中の酉には御一家の御代官は瀬戸へ参詣有下向被参は總て御精進過也云々、是等に據ても足利家にて尊敬浅からざりし事、及古より社頭の荘厳なりしも推て知らる。又僧萬里が當社亭壁に題せる詩なりとて、世に畢行するものあり、【梅花無畫蔵】を閲するに見えず、然れども當時の僧家の手に出ることは疑もなければ姑ここに載す。其叙に云、禅居和尚云、瀬戸行宮古最靈、魚龍舞浪海風醒、浙江亭上多疑似、(中略)。
小田原北條家よりも社領の寄附ありしにや、【小田原役帳】に六浦社領八十五貫九百五十八文、六浦に伏神主拘とみゆ、又天正十九年十一月御朱印の文にも、六浦郷の内百石先規の如く御寄附の由記し給へり。社内に棟札とおぼしきものあり、圖上の如し。
寶物。
獅子頭一箇。頼朝當社創立の時寄附ありしものと云、所所損失して最古色に見ゆ圖左の如し。
抜頭面一枚。惣朱塗にて裏は黒漆に朱を以て銘を記せり。
稜王面一枚。
紺紙金泥心経一巻。筆者詳ならず。
鐘楼。本社に向て右にあり銘左の如し。
薬師堂
同邊にあり、二間四方、本尊薬師は立像にて長三尺許、土人ほうか僧の薬師と呼ぶ、由来詳ならず、古當所にて放下僧復讐せしことあり、この因にて稱するにや、復讐のことは下に載す三本松の條に出せり。
末社稲荷社二宇。本社の後赤壁の中腹に穴ありて其中に造立す。
蛇混柏。本社の東にあり。是古世の神木にて金澤八木と稱する其一なりと云。屈蟠延亘せるさま蛇のわだかまりし如くなれば、蛇混柏といへり、相傳て将軍頼朝當社草創の時植られしものと云へどもかがあらん、僧萬里が詩に遺廟松圍六浦橋、朗吟繁馬石支腰、歸鴉飛破翠屏面、剰被風聲添番潮、自注に云六浦廟前有古柏屈繁と。是文明年中の作にして、已に古柏と稱すれば古樹なること論なし、その後何の頃よりか立枯となりしを、延寶八年八月六日大風の爲に轉倒せし故、其まま注連を引廻して今尚存在す。此柏數百歳の星霜を歴し故にや、香気馥郁たること宛も伽羅にひとし、延寶八年轉倒せし時剪取し枝もて社内左官の板羽目となせるもの猶香気盛なり、間はずして彼材なるを知らる、板は堅緻にして潤澤なること紫檀に類せり。
三本松。蛇混柏の南にあり、是も古樹なり、三株比生して一株の如し、【鎌倉志】に是放下僧が轡を復せし所なりと云、謡曲にも瀬戸の三嶋と載たり、此の三本杉も延寶八年風雪の爲に倒れしといへり。按に【那須拾遺記】に中昔の事なりし下野國那須郡森田の住人牧野左衛門勝重と云もの、上野國伊香保の温湯に浴せしに、相模國の住人刀彌大膳信俊と云ものと諍論をなし、劔撃に及びて信俊うちまけ、一旦其所を去しかと、遂に勝重を殺害せり、勝重に男子二人あり、兄を次郎丸と云、弟を小次郎と呼ぶ、此兄弟父の仇を討んため武蔵國に立越、身をやつして兄は行脚の姿となり、弟は放下僧となりて同國瀬戸の三島にて信俊を討取し由を載たり
辨財天社
瀬戸社の前海中に一丁餘出たる嶼あり、その形琵琶に似たり、中央に社建り、瀬戸辨天とも琵琶嶋辨天とも稱す、嶼中に至る道に橋二を架す、其道の左右は混柏の並木なり、此柏も延寶八年風雪の後枯しとて、今は幹のみ残りたれど、木理堅緻にして一枝も朽しものなし、相傳ふ當社は頼朝の御臺平政子竹生島辨財天の寫しをここに勧請す、柏の並木も其時植させられしものと云、小社にして東に向ふ、鳥居は並木の所にたてり、瀬戸橋の方より琵琶嶋に行道の傍に福石と云石あり、金澤四石の一なり。
社寶。
寶珠石三顆。(新編武蔵風土記稿より)

神奈川県神社誌による瀬戸神社の由緒

金沢の入江が現在の泥亀町、大川町、釜利谷町まで湾入していた太古、潮の干満激しき急湍を領知する霊神として顕われ給うたのが瀬戸大神であり、その霊域を卜して治承四年源頼朝が伊豆三島明神を勧請したのを本社の創祀とする。建久三年(一一九二)更に社殿を造営、社領三百町歩の寄進ありと云い、社伝には更に源実朝の祈願、北条貞時の修造を伝えている。中世の六浦湊を中心とする社頭殷賑の状は陽極放下僧にも伝え、建武の鎌倉年中行事には管領足利成氏社参の状況を詳細に記録している。小田原北条氏も社領として八五貫九五八文の地を寄せたが、天正十九年(一五九一)徳川家康は社領百石を安堵し、慶長五年(一六〇〇)七月一日自ら参拝した。元禄以後は勝地金沢八景の中心にあって、領主米倉丹後守をはじめ、江戸市民の間にまで信仰者がひろがり衆庶の参詣をあつめた。
明治六年郷社に列格、同十一年日輪山円通寺より東照宮を合祀、同四十年神饌幣帛料供進神社に指定され、同四十二年近郷の熊野神社、稲荷神社、太神宮、日光社、諏訪神社、山王社、浅間社、白山社の八社を合祀した。昭和四十三年神奈川県神社庁謙幣使参向の子弟神社となった。
境内社のうち琵琶島神社は、北条政子が頼朝に倣って、日頃自ら崇敬する江州竹生島弁才天を勧請したもので、本社々頭の海中に築島してこれを祀った。島の形が琵琶に似ていたので琵琶島弁天の称を得たが、前記の足利成氏参詣記録には「船寄弁才天」とあり、又神躰立像にまします所から「立身弁才天」として本社と共に衆庶の崇敬をあつめている。(神奈川県神社誌より)

境内掲示による瀬戸神社の由緒

中世都市鎌倉の外港として栄えていた武蔵国六浦庄(現金沢区全域)における中心的な神社・平潟湾と瀬戸入海をつなぐ潮流の速い海峡を望む地点に、古代から海の神としてまつられたと推定されますが、社伝では治承四年(一一八〇)に源頼朝が伊豆三島明神(三島市三嶋大社)を勧請したのが起源とされています。祭神は大山祇命。
鎌倉時代以来、執権北条氏・鎌倉公方足利氏・小田原北条氏などといった歴代の権力者によって保護され、江戸時代に入っても百石の朱印地を徳川将軍家より与えられています。
現在の社殿は、寛政十二年(一八〇〇)に建造され、屋根は、昭和四年(一九二九)に銅板に葺き替えられています。
また、境内正面より平潟湾へのびる突堤の先端部にまつられている弁天社(琵琶島神社)は、頼朝の夫人北条政子が琵琶湖の竹生島から勧請したものと伝えられています。(境内掲示より)


瀬戸神社所蔵の文化財

  • 木造舞楽面(国指定重要文化財)
  • 木造守門神坐像(横浜市指定有形文化財)
  • 木造神像男神坐像三軀・男神立像一軀・女神坐像二軀・八臂弁才天立像一軀・附破損像一軀(横浜市指定有形文化財)
  • 瀬戸神社の湯立神楽(横浜市指定無形民俗文化財)
  • 瀬戸神社の大カヤ(横浜市指定天然記念物)
  • 瀬戸神社の社叢林(横浜市指定天然記念物)
  • 琵琶島(横浜市地域史跡)

木造舞楽面

鎌倉時代初めの勧請を伝える瀬戸神社創建期の舞楽面です。抜頭は、頭が小さく鼻先が丸いという類例の少ない形式で、裏面の建保七年(一二一九)の銘は疑念が持たれているものの、作風からいってこの頃の作と認められます。陸王は頭上の龍が身を低く構える形式の面で、鶴岡八幡宮の陸王面(重文)と大きさや形がほぼ同じであるところから同作と推定されます。鎌倉時代の舞楽面は地方では極めて珍しく、関東における本格的な舞楽面として貴重な史料です。(横浜市教育委員会掲示より)

木造守門神坐像

瀬戸神社拝殿の両脇壇に安置されている坐像で、左(向かって右)に阿形像、右には吽形像が配されています。
いずれも檜材を用いた寄木造りの像で、顔は斜め内側に向けて眼をいからせ、内寄りの脚を踏み下げて牀座の上に坐ります。顔には緌(おいかけ・冠の左右に付ける飾り)を付けた巾子冠を被り、狩衣を着け指貫を穿き、膝下にまで達する沓を履いていある。いずれも太刀を佩き胡簶(やなぐい・矢を入れる容器)を背負った、武官の服装をした一対の守門神像です。
本像は、数少ない守門神の古像として、その造立が鎌倉時代末期まで遡ることも考えられる貴重な遺品です。(横浜市教育委員会掲示より)

木造神像男神坐像三軀・男神立像一軀・女神坐像二軀・八臂弁才天立像一軀・附破損像一軀

瀬戸神社に伝わる中世の神像群計七軀。八臂弁才天のみ室町時代、他は南北朝時代の作です。
男神坐像三軀は、ともに眉根を寄せ眼を怒らせる忿怒の相で、写実的な表現性に富んでいます。二軀は冠を戴き、狩衣風の衣を着けていますが、一軀は闕腋の袍と袴を着けて笏を持ち、鼻下にひげを蓄えながら、頭髪は角髪に結った童子形で、日本の神観念を考える上で興味深い姿をしています。
男神立像一軀は、髷を結い、狩衣風の着衣に袴を着け、右足を踏み出して岩座上に立つ像です。
女神坐像二軀は、髪を中央で分けて後ろに垂らし、小袖・袴・唐衣風の着衣に懸守を下げています。
八臂弁才天立像一軀は、もと琵琶島弁天社に安置されていた像で、頭上に人面蛇身の宇賀神を戴き、左手に宝珠を持っています。
以上七軀のほか、さらに古い作風を示す破損像(一木造・像高二六・一cm)一軀があります。
一つの神社に中世の神像がこれだけまとまって蔵されている例は、県下はもとより、関東地方でも珍しく、しかも像はいずれも佳作であり、彫刻史上に占める意義は大きいといえます。(横浜市教育委員会掲示より)

瀬戸神社の湯立神楽

湯立神楽は、境内の斎庭に大釜を据え、浄火を焚いて熱湯をたぎらせ、竹の幣串をもってその湯をかき回す時に立ち止る湯花により神占とし、また笹の葉を浸して湯を参詣者などの頭上に振りそそいで祓いとする行事。湯花神楽とも鎌倉神楽とも称して、東京湾から相模湾沿岸の漁村に広く伝わり、大正年間までは県の内陸部でも盛んに行われました。
現在、市内などに伝わる湯立神楽は、鶴岡八幡宮の旧職掌が司宰するものが多く、拡張が高いものです。
瀬戸神社で奉奏される湯立神楽は、1打囃2初能3御祓4祝詞5御幣招6掻湯7射祓8御湯9湯座10剣舞の十座で、その様子は、境内の斎庭に湯立のための山を設け、四本の青竹を四方に立て、中央に高い青竹一本を立て、その頭上に五色の幣を垂らした天蓋をつくるなどして、山の中央に釜を据えて湯をたぎらせて行われます。(横浜市教育委員会掲示より)

琵琶島

琵琶島は島の形が琵琶に似ていることから呼ばれたと言われます。
島には北条政子が近江(滋賀県)の竹生島から勧請した弁天を祭ってあります。
もとは瀬戸神社前面の海中にあり、二つの島を橋で結んでいましたが、現在は陸つづきとなっています。
金沢八景の一つである「瀬戸の秋月」の夜景を今に伝えるところです。
よるなみの瀬戸の秋風小夜更けて千里のおきにすめる月かけ 京極高門(横浜市教育委員会掲示より)

瀬戸神社の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿