太田杉山神社|横浜市南区南太田の神社

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太田杉山神社|相殿横浜水天宮

太田杉山神社の概要

太田杉山神社は、横浜市南区南太田にある杉山神社です。太田杉山神社の創建年代は不詳ですが、都筑郡吉田村(港北区新吉田)杉山神社を勧請したものと考えられ、 永和2年6月 (1376年)銘の棟札があったことから、鎌倉時代以前の創建と考えられています。江戸時代には太田村(南太田・三春台一帯)の鎮守社であったといい、明治2年に杉山神社と改称、明治6年に村社に列格、明治41年には無格社浅間神社、東神社、稲荷社二社を合祀したといいます。

太田杉山神社
太田杉山神社の概要
社号 杉山神社
祭神 日本武尊、天照皇大神、大物主神、崇徳天皇、豊受比売神、菅原道真、大山咋神、木花咲耶姫命、天照皇大神、稲倉魂命、宇気母智命
相殿 横浜水天宮
境内社 -
住所 横浜市南区南太田2-7-29
祭日 例大祭8月24日
備考 -



太田杉山神社の由緒

太田杉山神社の創建年代は不詳ですが、都筑郡吉田村(港北区新吉田)杉山神社を勧請したものと考えられ、 永和2年6月 (1376年)銘の棟札があったことから、鎌倉時代以前の創建と考えられています。江戸時代には太田村(南太田・三春台一帯)の鎮守社であったといい、明治2年に杉山神社と改称、明治6年に村社に列格、明治41年には無格社浅間神社、東神社、稲荷社二社を合祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による太田杉山神社の由緒

(太田村)杉山明神社
除地、五間に九間、往還の西山の麓にあり。村の鎮守なり。前に鳥居を建、本社五尺に四尺五寸、上屋四間に三間、巽向。神体は束帯の形にて長五寸許、本地は薬師なり。長一尺二寸、例祭九月十二日。按するに都筑郡吉田村杉山神社は「延喜式神名帳」に載る所なりと云。近郷同祭神の社多し。皆彼神を勧請せしなるべし。村内大光院持、本社の左右に天神稲荷の二社あり。又社殿の山に太神宮金毘羅の二宇あり。(新編武蔵風土記稿より)

神奈川県神社誌による太田杉山神社の由緒

創立年月不詳、永和二年(一三七六)六月の棟札に「益田大江助造営」とあり、文化七年社殿造営と同時に社後山上の大神宮・金刀比羅宮の二社を合祀した。明治維新前は杉山大明神と称し、大光院別当の所管であった。明治二年社寺分離の制に従い杉山神社と改め、明治六年十二月村社に列した。同二十三年氏子区域内の無格社日枝神社を合併、同四十一年九月同じく無格社浅間神社、東神社、稲荷社二社を合併合祀し、大正十年神饌幣帛料供進社に指定された。昭和二十年五月二十九日戦災の為、社殿社務所を全焼、同時に永和二年の棟札も焼失したが、昭和三十二年八月社殿復興造営竣工、同三十三年十二月神楽殿、社務所を新築竣工した。(神奈川県神社誌より)

「南区の歴史」による太田杉山神社の由緒

創立年代不詳、古より住民は産生神(うぶすながみ)と仰ぎ杉山大明神とあがめて尊崇した。中世、南北朝時代の永和二年(一三七六)六月に益田大江助が杉山大明神社殿を再建した棟札が保存されていたが、昭和二〇年五月二九日の大空襲で焼失してしまった。寛永年代、隣接の松吟山大光寺が当社の別当寺となった。文化七年、社殿改築の際、境内社の大神宮、金刀比羅宮を本殿内に奉斎した。社後の山上には現在も天神、稲荷の二社が境内社として鎮座しているが、とくに天神社は徳川氏の家祖に当る親氏が、諸国流浪中たちまち此の太田の地に留り天神を勧請し、此の地を去るに当ってここに譲り置かれたので、徳川天満自在天神の名を残している。(佐野新平氏談)
明治二年社号を杉山神社と改称した。明治六年一二月に村社に列格。明治二八年九月、大原耕地の日枝神社、同四一年九月大丸耕地の浅間神社、清水耕地の稲荷神社、谷戸耕地の東神社、西仲耕地の稲荷神社の四社を合併合祀した。なかで東神社はもと東耕地にあって大神宮と称したが、谷戸耕地に移転の時から旧地名をとって東神社としたものである。
太田稲荷三社とは、社後山上の稲荷社、清水耕地、西仲耕地に鎮座した稲荷社を指したものである。
大正一〇年九月一五日神饌幣帛料の供進社に指定された。(「南区の歴史」より)


太田杉山神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「神奈川県神社誌」
  • 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)