蓮花院。横浜市南区三春台にある高野山真言宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

東光山蓮花院。横浜三十三観世音霊場、東国八十八ヵ所霊場

蓮花院の概要

高野山真言宗寺院の蓮花院は、東光山と号します。蓮花院の創建年代は不詳ですが、蓮花院の創建年代は不詳ですが、大永2年(1522)に鎌倉から薬師像を迎えて創建したといい、秀仲阿闇梨が元禄年間(1688-1704)に中興したといいます。横浜三十三観世音霊場5番、東国八十八ヵ所霊場33番、、横浜弘法大師二十一箇所8番です。

蓮花院
蓮花院の概要
山号 東光山
院号 蓮花院
寺号 -
住所 横浜市南区三春台19
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 横浜れんげ幼稚園併設



蓮花院の縁起

蓮花院の創建年代は不詳ですが、大永2年(1522)に鎌倉から薬師像を迎えて創建したといい、秀仲阿闇梨が元禄年間(1688-1704)に中興したといいます。

新編武蔵風土記稿による蓮花院の縁起

(太田村)蓮華院
永引、二畝二十歩、是も西組にあり。同宗同末(古義真言宗東福寺末)、東光山と号す。本堂六間に四間半巽向。本尊十一面観音長二尺許。
薬師堂。本堂に向て右にあり。坐身長八寸許。春日の作と云。此薬師の除地別に五畝許、村の西方にあり。昔は其所に堂ありしなるべし。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿 佛寺編」による蓮花院の縁起

蓮華院
位置
蓮華院は、東光山(過去帳には東向山とす。)と號し、中區南太田町字西中耕地千六百九十一番地に在る。境内は二百三十七坪。民有地。 市内東福寺の末、寺格は十一等である。
沿革
ロ碑に據れば、大永二年五月六日、鄕主某が靈夢に感得して、鎌倉から藥師の尊像を迎へて、草、創した所と云ふ。叉、初は村の西邊に在つたが、後に今の境内に移つたと言ふ。寛永十年二月十五日議定の關東古義眞言宗本末帳に、東福寺の末と載せてある。元祿年中、秀仲阿闍梨が之を再興し、其時に阿闍梨の念持佛十一面觀世音を以て從来の本尊に代へ、元の本尊は之を新建の藥師堂に移して安置したと云ふ。新編武藏風土記稿には、「本尊十一面觀世音長二尺許。藥師堂、本堂二向テ右ニアリ。坐身長八寸許、春日ノ作ト云。此藥師ノ除地別二五畝許、村ノ西方ニアリ。昔ハ其所ニ堂アリシナルベシ。」とあるが、天保九年の過去帳には、「太田鄕在レ寺。山名ニ東向一。寺號ニ醫王一。院稱ニ蓮華一。醫王薄伽之靈場也。」と記してある。延享の以後は殆ど無住で、隣寺の普門院、叉は本山東福寺の兼帶を受けて、明治に至った。明治二十一年、大島惠昌が住職と爲り、堂宇を修繕して面目を一新した。依つて惠昌を中興第一世と稱する。同三十二年、金川惠信が繼いで住職となり、同四十二年、本堂を改築し、境内を整理し、大に舊態を改め、更に大正二年、藥師堂桁行四間、梁間五間。を再建し、翌三年五月、六十一年目の開扉大法要を營み、爾來毎月の緣日を起し、大に寺門を興隆したが、同十二年九月一日の大震火災に、本堂を始め悉くを灰燼に歸した。次いで同十四年三月に至り、本堂の再建を遂げたのである。
本尊
本尊は十一面觀世音の立像、高二尺、蓮華臺座共二尺五寸。(「横浜市史稿 佛寺編」より)

「南区の歴史」による蓮花院の縁起

東光山蓮花院
口碑に、大永二年(一五二二)五月六日、郷主某が霊夢によって、鎌倉から薬師の尊像を迎えて草創したといわれるが、年月日迄で明らかにされながら霊夢を感得した郷主が誰れであるか某とのみは不思議であるが、当院ははじめ村の西方に在ったのが何時の頃か現地に移り、元禄年中秀仲阿闇梨が当院を再興したが、その時秀仲の念持仏十一両観世音菩薩を本尊にかえ、薬師如来は本堂向って右に薬師堂を建立してそれに移して安置したという。薬師如来は秘仏で六一年目毎に開扉された。明治二一年大島恵昌が住職になって堂字を修復して寺の面目を一新したので、恵昌を中興第一世とした。恵昌は普門院も兼務している。明治三二年金川恵信が住職となって一〇年後本堂を改築し、境内を整備した。大正二年薬師堂間口四間、奥行五間を再建し、翌三年五月に六一年目の御開帳を行なった。爾来毎月縁日が行なわれ、寺門は興隆したが、大正一二年九月一日の関東大震火災によって、本堂をはじめ悉く灰櫨に帰した。大正一四年三月本堂間口六間、奥行五間和洋折衷造、屋根亜鉛板葦。庫裡仮建築一〇坪、亜鉛板葺の再建を遂げた。昭和二〇年五月二九日横浜大空襲において、再び全てを焼失した。昭和四一年六月二八日の四号台風に本堂・庫裡倒壊。のち仮堂を建築して現在に及んでいるが目下、鉄筋コンクリート三階建の本堂、客殿を建立中である。(「南区の歴史」より)


蓮花院の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿 佛寺編」
  • 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)