乗國山徳翁寺。上杉刑部太夫乗國の菩提を弔う為に創建
徳翁寺の概要
曹洞宗寺院の徳翁寺は、乗國山と号します。徳翁寺は、上杉憲方が父上杉刑部太夫乗國(大永元年152年没)の菩提を弔う為、鶴見総持寺第七百四世如幻宗吾禅師(享禄3年1530年寂)を開山に迎えて創建したといいます。
山号 | 乗國山 |
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院号 | - |
寺号 | 徳翁寺 |
本尊 | 釈迦如来像 |
住所 | 横浜市戸塚区川上町546 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
徳翁寺の縁起
徳翁寺は、上杉憲方が父上杉刑部太夫乗國(大永元年152年没)の菩提を弔う為、鶴見総持寺第七百四世如幻宗吾禅師(享禄3年1530年寂)を開山に迎えて創建したといいます。
新編相模国風土記稿による徳翁寺の縁起
(後山田村)徳翁寺
乗國山と號す、曹洞宗能州□□郡普蔵院末、本尊は弥陀、開山は宗悟、享禄三年十一月廿日弱す。開基は上杉刑部大輔乗國、大永元年七月十日卒す、法名養光院徳翁見公、按ずるに寛永宅間譜に、三十郎憲方、法名胤公、道號貴山、院號勝楽と云ふ、相州山之内庄に於て乗國山徳翁寺を建立すと見え又系図纂上杉系には、刑部大輔乗國の名を挙す。宅間左衛門佐憲清が五代の孫に、乗忠と云ふものあり、通稱を脱し只養洪院と號すと記し、其子に三十郎乗方を係け徳翁寺建立と記せり。是に豫て推考するに、寺傳に云乗忠と、院號の文字異なれど其唱へ同きに豫れば、もと乗國乗忠同人にして、其子乗方亡父の為に當寺を創建し、やがて其父を開基に准せしものならん。寺傳の異なるは、全く訛舛あるなるべし、と傳ふ。
白山社。(新編相模国風土記稿より)
「戸塚区郷土史」による徳翁寺の縁起
当寺は乗国山と号し、本尊は正観世音菩薩、能州大本山総持寺(現鶴見総持寺)の直末で、曽つては五院の首班普蔵院の末寺であった。開基は鎌倉管領をつとめた上杉輝虎(謙信)の始祖上杉刑部太夫乗国であり、乗国は父(大永元年七月十日尾州小牧原において戦死)の菩提を弔うため、山之内庄山田村に一寺を創設し、所持の観音を本尊とし、如幻禅師を請して開山第一世とした。「相模風土記」には「本尊弥陀、開山宗、悟享保三年(一七一八)十一月二十日寂」と記している。
大正十二年関東大震災に際し、諸堂宇崩壊のため現在の地に昭和七年移転し、十月十日諸堂完成し現在にいたっている。(「戸塚区郷土史」より)
横浜市教育委員会掲示による徳翁寺の縁起
雲岫和尚像は、当寺中興六世とされる雲岫周泰の頂相(禅宗の肖像画)です。
徳翁寺縁起
此の寺乗國山徳翁寺と称し、文亀三年上杉謙信氏の曾伯父上杉刑部太夫乗國郷の子憲方が父の菩提を弔う為開いた寺です。開山は石川県総持寺第七百四世如幻宗吾禅師です。當寺は大本山総持寺御直末で有るが元輪番地の為無住の時が多く寺は荒れ果てました。大正十二年関東大震災にて本堂庫裏大破し三十二世有全大和尚の時境内地が湿地の為山の平地に仮本堂庫裏を移転。昭和五年三十三世百川文雄大和尚豫てより願の本堂建築に着手檀家中の寄附その他にて昭和七年十一月二十日落慶の榮を得中興の称號を賜る。(横浜市教育委員会掲示より)
徳翁寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿