朝陽山八幡宮|横浜市鶴見区鶴見の神社

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朝陽山八幡宮|漁場の位置や生麦浦への帰帆の目印

朝陽山八幡宮の概要

朝陽山八幡宮は、横浜市鶴見区鶴見にある神社です。朝陽山八幡宮の創建年代は不詳ですが、漁場の位置や生麦浦への帰帆の目印として漁業民の信仰が厚かったといいます。

朝陽山八幡宮
朝陽山八幡宮の概要
社号 八幡神社
祭神 応神天皇
相殿 -
境内社 冨士浅間大神、御嶽神社
住所 横浜市鶴見区鶴見1-10-10
祭日 例大祭9月15日
備考 一般の参拝不可



朝陽山八幡宮の由緒

朝陽山八幡宮の創建年代は不詳ですが、漁場の位置や生麦浦への帰帆の目印として漁業民の信仰が厚かったといいます。

新編武蔵風土記稿による朝陽山八幡宮の由緒

(鶴見村)八幡宮
往還より5丁ばかり引込。鶴見村の境山の上にあり。社に上屋あり2間四方前に石階数級あり。山の高は5・6尺ばかりにして下に石の鳥居をたつ。これも龍泉寺持なり。此所眺望甚よろしく、房総の二州並に本牧の山々海面に連綿し、近くは潮田大師河原の村をのぞみ勝景の山なり。(新編武蔵風土記稿より)

神奈川県神社誌による朝陽山八幡宮の由緒

創立年代は詳かでない。天保十二年辛丑八月社殿を再建す、と誌されている。
神社は丘上にあって東京湾を一望の中に遥かに房総の連山を眺め得る位置にして神木として数百年を経たる松樹境内に在り。(神奈川県神社誌より)

「八幡宮奉賛会」掲示による朝陽山八幡宮の由緒

当宮は「北町の八幡さま」と親しまれ、「武神」応神天皇を奉祀する。
創建年代は不詳であるが、生麦北町南部・中部・北部の鎮守にて漁師たちの信仰が厚い。かつて海上からは八幡宮の山は漁場の位置や生麦浦への帰帆の目印であった。江戸幕府編纂「新編武蔵風土記稿」八幡宮の項に「往還より五丁ハカラ引込鶴見村ノ境山ノ上ニアリ 社ニ上屋アリ 二間四方前ニ石階数級アリ 山ノ高ハ五尺ハカリニシテ下ニ本牧ノ山々海面ニ連綿シ近クハ潮田大師河原ノ村ヲノゾミ勝景ノ山ナリ」と記されている。
元禄八年(1695)9月 武蔵国橘樹郡生麦村検地水帳には、八幡宮地十八間X七間 四畝六歩 別当・龍泉寺とある。
石の鳥居には文化五年(1808)戊申三月吉日惣氏子中と刻まれて鶴見村石工飯島吉六の作である。
天保十二年(1841)八月 鳥居には当地の文人関口東作の七言律詩の刻まれた献額が掲げられ、その一節には「六威永護郷民福」(この宮のご利益は大きく人々の幸福を永くまもっている)とある。その他八幡宮の景観と境内の春夏秋冬が詠み込まれ全国的にも非常にめずらしい。当初の献額は不明で、現存の献額は大正四年(1915)九月奉納による三回目の復興で社殿内にある。
石の鳥居をくぐるとすぐ左側に庚申塔があり、六腎青面金剛神像が彫られ享保二年(1717)三月建立者講中七人の名が刻まれている。
門扉を開け正面の急な石段を登ると境内に石畳が続いて手前に生麦一山講冨士浅間大神の宝塔、水盤、左右に狛犬を配し、左側に御嶽神社の小祠、又一対の石燈籠が中台まで残っている。正面に流造の社殿があり、屋根の鬼板竜鼻、浜床は甃、社殿内には外陣と一段高い内陣とに仕切られ、合戦大絵図を掲げ、御神体は幻の宮神輿が御守し、左大臣右大臣の木像が安置されている。祭礼は五月十五日又十一月十五日には八幡祠とある。
長い期間中断、平成八年(1996)より五月の祭礼が隔年でささやかに継承され今日に至っている。(「八幡宮奉賛会」掲示より)


朝陽山八幡宮所蔵の文化財

  • 関口東作献額

朝陽山八幡宮の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿