矢向日枝神社|近郷七ヵ村の鎮守
矢向日枝神社の概要
矢向日枝神社は、横浜市鶴見区矢向にある神社です。矢向日枝神社は、近郷(矢向村、市場村、江ヶ崎、塚越村、古川村、上平間村の七ヵ村)の鎮守として寛永15年(1638)に創建したと伝えられ、明治6年に村社に列格、明治42年無格社十二柱神、神明社、稲荷社の三社を併合したといいます。
社号 | 日枝神社 |
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祭神 | 大山咋命 |
相殿 | 天御中主神、天津神七柱、国津神五柱、豊受比売命 |
境内社 | 稲荷社、神明社 |
住所 | 横浜市鶴見区矢向4-16-2 |
祭日 | 例大祭8月吉日 |
備考 | 旧矢向村鎮守、旧村社 |
矢向日枝神社の由緒
矢向日枝神社は、近郷(矢向村、市場村、江ヶ崎、塚越村、古川村、上平間村の七ヵ村)の鎮守として寛永15年(1638)に創建したと伝えられます。明治6年に村社に列格、明治42年無格社十二柱神、神明社、稲荷社の三社を併合したといいます。
新編武蔵風土記稿による矢向日枝神社の由緒
(矢向村)山王社
村の東へよりてあり。六尺四方の社にて覆屋を造れり、前に拝殿あり三間に三間半、語り傳へに往古は社領三千貫文の地ありて、近郷市場江ヶ崎塚越古川平間等の村までなへて当社を鎮守とせしと。此説もし實ならんには昔はことに大社にして、最古き宮柱なるべし。されど此事ただ云傳ふるのみにて今聊蹤跡なきときは、恐くはうきたる説なるべし。或云村内神田と云小名は、当社領の遺名ならんと。さもありしにや。最願寺持。
末社。
天神稲荷合社。本社に向て右の方にあり。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による矢向日枝神社の由緒
当神社は滋賀県大津の日吉神社の御分霊を勧請したもので、山王大権現、山王社等と称され、寛永十五年の創立と云い古へは矢向村、市場村、江ヶ崎、塚越村、古川村、上平間村の七ヵ村の鎮守であった。元別当寺だった同所の最願寺等に存している棟札に依ると、寛永十五年、寛文三年、享保十年、天明二年、文化七年等の各年代に造立が行われ各時代に亘って七ヵ村の造粒する処とされていたが天保の末に至っては各村は分離し、当神社は矢向一村の鎮守となったのである。その後、徳川氏に至って若干の社地を寄進せられて神田耕地と称する所があったと云われるがこれが当神社の領地であったらしい。
往時鶴見川、六郷川の氾濫で度々社殿は破損した事もあったが天保十四年に再建し、明治六年村社に列せられ山王社を改めて日枝神社と改称し、同四十二年二月一日無格社十二柱神、神明社、稲荷社の三社を併合の上大正十一年十月六日、神饌幣帛料供進社(国又は市町村から産物を献納する)に指定された。
その後、昭和二十一年に宗教法人となり、昭和三十二年八月には氏子崇敬者の赤誠によって御社殿の改修が行われ今日に至っている。(境内掲示より)
神奈川県神社誌による矢向日枝神社の由緒
日枝神社
当社は寛永十五年(一六三八)の創立といわれ、山王大権現と称せられ、矢向村、市場村、江ヶ崎、塚越村、古川村、上平間、下平間村の七箇村に及び崇敬された社である。別当寺の最願寺所蔵の棟札によれば、寛永十二年、寛文三年、延宝五年、宝永三年、享保十年、天明二年、文化七年、天保十四年の造営(屋根葺替)は七箇村によって行われた。地区内の神田耕地は社領の一部であった。天保の末年に各村分離し、矢向一村の鎮守となった。往時鶴見川、六郷川の洪水により、古記録、宝物類を流失し、現在天保年間に造られたと思われる大神輿一基がある。明治六年村社に列し、日枝神社と改称、地区内の小社を合祀した。大正十一年十一月十四日神饌幣帛料供進社に指定せられ、昭和三十八年八月大修築が行われた。(神奈川県神社誌より)
矢向日枝神社所蔵の文化財
- 土師流郷神楽(横浜市認定無形文化財)
- 勝海舟揮毫の扁額一面
- 御神輿一基 文化七年作
矢向日枝神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿