持宝院|江東区北砂にある真言宗智山派寺院

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薬光山持宝院|荒川辺八十八ヶ所

持宝院の概要

真言宗智山派寺院の持宝院は、薬光山と号します。持宝院の創建年代は不詳ながら、尭存法印が創建、創建時期は寛永3年(1626)とも元亀・天正年間ともいいます。荒川辺八十八ヶ所霊場77番札所です。

持宝院
持宝院の概要
山号 薬光山
院号 持宝院
寺号 -
住所 江東区北砂4-22-6
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 荒川辺八十八ヶ所霊場77番札所



持宝院の縁起

持宝院の創建年代は不詳ながら、尭存法印が創建、創建時期は寛永3年(1626)とも元亀・天正年間ともいいます。

新編武蔵風土記稿による持宝院の縁起

持寶院
新義真言宗、亀戸村普門院末薬光山と号す。本尊薬師は弘法大師の作にして長1尺6寸5分。又同作の不動を安せり。寺僧の傳に八幡太郎義家の守本尊なりと云。(新編武蔵風土記稿より)

「江東区の民俗城東編」による持宝院の縁起

持宝院
『砂町誌』によれば、第一世尭存法印などは名のみで、没年は不明とされ、第六世賢良法印が寛文一一年(一六七一)に亡くなっており、元亀天正のころ以前に創始されたのではないかとしている。『城東区史稿』によれば、寛永三年(一六二六)に尭存法印が創始したとある。『真言宗智山派持宝院』では、『砂町誌』と同じく元亀天正以前に開創されたとしている。
『砂町誌』によれば、本尊薬師如来の由来は不詳であり、言い伝えによれば本尊と脇立光火不動明王は弘法大師作で霊験あらたかで、住職が二代将軍のもとに出入りしていたとき、将軍が深くこの両尊を信じ、貴き尊像を護持するというので持(二)宝院の号を賜ったという。
元禄五年(一六九二)、西誉蓮入法師という僧が二一日間の断食の後持宝院内で入定した。西誉蓮人は塩釜の人で元は武士であったと伝えられているが、姓名は不明である。持宝院に来て剃髪し僧となり修行し、あるとき持宝院の不動明王の霊夢をみて村民を疫病から救うために入定したという(『真言宗智山派持宝院』)。二一日間の断食の間法師の坐った穴から日夜止むことなくお経が聞こえ、結願の日に眠るように亡くなり、その後村民が疫病にかかることがなく、疫病除けの塚として人々の信仰をあっめたという(『葛西志』)。寺では法師百回忌にあたる寛政三年(一七九一)に「西譽蓮入法師入定縁起」を作成し、文政六年(一八二三)に亀高村と治兵衛新田の者の手により「入定墳」が建てられた。
享和元年(一八〇一)に弘法大師像を迎えた。この像は弘法大師誕生の地である讃岐善通寺伝来していたものとされている。宝暦(一七五一~六四)のころ、善通寺の大塔再建の勧進に恵月院秀円という僧が弘法大師像を背負って各地を巡り歩いた。天明八年(一七八八)に大塔が再建され、飾りのための費用を集めるために秀円は江戸で勧進をした。江戸神田訪中の信者の家にこの大師像を安置したまま、秀円は寄付金を善通寺に納めるために四国へ旅立ち、寛政一〇年(一七九八)に木津村(大阪府)で亡くなった。その後、講中の手により持宝院に納められたという(『真言宗智山派持宝院』)。文政三年(一八二〇)に、大師堂裏に神田真言講中と新田真言講中により「大勧進恵月院秀円上人供養塔」が建てられた。大師堂前に文化一四年(一八一七)に江戸小名木川阿州屋敷国部屋中から奉納された水盤がある。亀高村西方に松平阿波守抱屋敷があり、弘法大師は同じ四国出身のためか奉納されたものと推測できる。持宝院境内には弘法大師の標注が三本残されている。いずれも別の場所から移されたものであり、厄除け弘法大師として信仰を集めていたことがわかる。なお、『江東区の仏像』によれば、大師堂の本尊木造弘法大師座像は江戸期の作品であるという。
持宝院の墓地奥に「旧極楽寺無縁塔」がある。砂村新田にあった極楽寺や火葬場が明治二〇年ころに荻新田に移り、無縁墓が残され見るに忍びないと村会議員などが相談して持宝院に改葬し、明治三四年に無縁塔を建立したものであるという。(「江東区の民俗城東編」より)


持宝院所蔵の文化財

  • 石造燈籠(江東区有形文化財)
  • 石造宝篋印塔元文4年在銘(江東区有形文化財)
  • 紙本墨画西誉蓮入像(江東区有形文化財)
  • 木造弘法大師坐像(江東区有形文化財)
  • 銅造梵鐘(江東区有形文化財)
  • 西誉蓮入法師入定縁起(江東区有形文化財)
  • 西誉蓮入入定墳の碑(江東区有形文化財)
  • 大正六年海嘯横死者供養塔(江東区有形文化財)
  • 旧極楽寺無縁塔(江東区有形文化財)

持宝院の周辺図