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猫の足あと

海龍山増徳院。横浜市南区平楽にある高野山真言宗寺院

海龍山増徳院の概要

高野山真言宗寺院の増徳院は、海龍山東泉寺と号します。海龍山増徳院の創建年代は不詳ですが、享保年間(1716-1735)に伝栄法印が中興したといいます。東国八十八ヵ所霊場40番、横浜觀音三十三所の16番、高野山真言宗の准別格本山です。

増徳院
増徳院の概要
山号 海龍山
院号 増徳院
寺号 東泉寺
住所 横浜市南区平楽103
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



海龍山増徳院の縁起

海龍山増徳院の創建年代は不詳ながら、大同年間(806-810)の創立とも伝えられ、明德3年(1392)には足利氏滿が、辨天社の別当を勤めていた当寺へ般若心経を奉納、嘉吉2年(1442)には横浜の領主より寄進を受けるなど、崇敬を集めていたといいます。その後一旦衰退したものの、長覺法印(正保2年1646年寂)が寛永2年(1625)に中興、慶安2年(1649)寺領6石1斗の御朱印状を拝領したといいます。

新編武蔵風土記稿による海龍山増徳院の縁起

(横濱村)辨天社別當増徳院
村の東南の方にあり、社地を距こと十二三丁、境内二千七百坪餘、古義真言宗、海龍山本泉寺と號、中興永覺正保二年二月二十日寂す、本尊不動。
寺寶
般若心経一巻。紺紙金泥なり、最古色に見ゆ、奥に明徳三年二月二十三日左兵衛督源朝臣氏満と記し、花押あり。
羅漢像二軸。兆殿司の筆と云。
五大尊像一軸。弘法大師の筆なり。
若宮権現社、天神社、稲荷社。以上元禄年中辨天社地より當所に引。
薬師堂。薬師は聖徳太子御歳四十二の時、作り給ひし像なりと云、往昔は堂免の田畠もありしならん、嘉吉年中の寄進状ありし由、本書は失て寫を蔵せり、文は後に載す、其内に石川寶金剛院とあり、金剛院は石川寶生寺の院號なれば、當時は此堂彼寺にて進退せしも知べからず。(文省略)(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿 佛寺編」による海龍山増徳院の縁起

增德院
位置及び寺格
增德院は、海龍山東泉寺と號し、元町一丁目十三番地にある。高野山金剛峯寺の直末で、准別格本山である。
大同年間の創立と云ふが、詳かでない。恐らく遙か後代の剏立と思はれる。明德三年二月二十三日、足利左兵衞督滿氏が、當寺南院附屬の辨天社へ、紺紙金泥の般若心經を納めたと云ふ。該經卷は震火災に燒失。而かも辨天社が附屬した證とては無い。叉、嘉吉二年卯月二十六日、領主から當寺附屬の横濱村藥師堂に免田畑若干の寄進があつたと云ふけれど、夫れも當寺附屬と主張するの證は無い。但し、この寄進状は、石川寶金剛寺卽ち堀之内寶生寺に宛てられたもので、今も現に同寺に所藏されてゐる。新編武藏風土記稿に「本書ハ失テ寫ヲ蔵セリ。」と記してあるは誤である。新編武藏風土記稿に、「當時ハ此堂、彼寺ニテ進退セシモ知ルベカラズ」とある。傍ゞ以て當時未だ增德院が創設されてゐない反證と爲る。當寺は中古、一旦廢寺となり、寛永二年に、長寛法印が中興を遂げた。同十年二月十五日議定の關東古義眞言宗本末竝寺領有無帳に、石川寶生寺末、增德院御朱印と載せてある。併し御朱印の三字は、後の追記としても、始めて當院へ朱印状が附せられたのは、是れより以前の事なのは明かである。慶安二年八月二十四日の朱印状寫(横濱開港側面史所載長者町落合氏所藏文書。)に、
武藏國久良岐郡横濱村、辨財天社領、同村之内六石壹斗餘之事。任先規寄附之訖。全可收納幷別當增德院中、山林竹木諸役等、免除如有來不可有相違者也。
とあるから、先規に任して寄附したのである。
先規及び有來の字最も力あるものとして注意を要する。更に貞享二年六月十一日附、朱印状寫(寶生寺記錄に據る。)には
武藏國久良岐郡横濱村、辨財天社領、同村之内、六石臺斗餘事。任慶安二年八月廿四日先判之旨寄附之。全可收納井別當增德院中山林・竹木・諸役等免除、如有來永不可有相違者他。
貞享二年六月十日
とある。
附記。新編武藏風土記稿に、「正保中ノ鄕帳ニ、六石一斗五合、秀閑寺領ト見エ、今、村内辨天社領六石一斗餘ニシテ、其數全ク同ジケレバ、秀閑寺若クハ辨天別當、增德院ノ舊號ナルモ知ルベカラズ。」とあるが、當院の名は、既に寛永の本末帳に出で、秀閑寺の名は、尙、其後の正保鄕帳に記載されてゐたとすれば、一寺兩名の設も成立たうが、秀閑寺は所謂、洲乾島に在つたと云へば、位置の上に隔りがあるから、其說には從ひ難いとも云ふことが出來る。併し增德院はもと洲干附近に在つたものが、後に元町に轉じたのであるかも知れぬから、前說を打消すほどには有力で無いのである。
元祿二年、境内に假堂を建てゝ洲乾辨天の尊像を移して安置し、これを上之宮杉山辨天と稱し、本社には前立の像を置き、これを下之宮淸水辨天と稱したと傳へるが、是れ甚だ怪むべきである。享保十二年、第十四世開央阿闍梨の代、桁行八間、梁間六間の本堂を再建した。當時當院は、寶生寺門徒にて、古跡坊上通の格式であつた。安政六年開港に由り檀信徒、頓にその數を加へ、(明治三年九月の書上に古檀家百十軒、新檀家千五百軒とある。)寺門興隆の機運が到來したので、同年中、第十九世玉宥阿闍梨、先づ藥師堂の再建を遂げ、慶應三年、桁行一間四尺、梁間一間半の表門を造營し、更に本堂の大修繕を行ひ、大に伽藍の面目を改めた。明治維新、神佛分離により、古來兼帶の上・下の辨天社、及び太神宮・淺間宮・稻荷社・第六天社・駒形社の別當を退き、又、境内千五百坪の内、五百坪を區劃して、上之宮杉山辨天社の社地に割き、同時に辨天社の尊體を當院に迎へた。明治七年、第二十世佐伯妙用は、門徒の協議を纒め、官廳の公認を得て、大本山金剛峯寺の直末となり、元の本寺寶生寺の中、本寺格を當院に移した。此に於て末寺三十餘箇寺を總持することとなり、法燈一時に輝くことが出來た。明治十年、桁行四間、梁間三間の石造倉庫を新築し翌十一年、境内に辨天堂を造立して、元の辨天社の尊像を安置し、同十六年十一月、桁行十二間、梁間十間の大本堂を再建し、元の本堂を改築して庫裡となし、翌十七年、大本山高野山より祕鍵弘法大師の尊像を迎へ、改めて本尊に立て、明治三十二年、第二十一世荒井興嚴、更に六間六分四方の煉瓦造、靈牌堂を建てた。斯くて大正三年、準別格本山に進み、市内第一の巨刹と仰がるゝに至つた。然るに大正十二年九月一日、大震火災に罹り、一山を擧げて焦土と化し、累代の文書・什寶を灰燼に附したが、幸に本尊及び藥師像を全うすることを得た。目下復興の進行中にある。
本尊は、祕鍵弘法大師。
目下再建の假本堂は建坪三十五坪、桁行 八間半、梁間四間半。入母屋造、瓦葺で庫裡は附屬建物共建坪三十坪、亞鉛葺である。
境内佛堂、藥師堂は、大同元年、海中出現の藥師如來像を安置する爲めに草創した所と云ふ。古くから免田畠もあつたと見えて、嘉吉二年の寄進状(政治編一第三章を参照。)がある。本尊は所謂、海中出現、傳、聖徳太子四十二歳の作、高一尺七寸の立像である。堂宇は、安政六年再建、大正十二年、大震火災に罹つて燒失した。今の堂宇は桁行三間、梁間四間の假建築である。
同辨天堂は明治十一年の造立で、元の辨天社の尊像を安置した所である。大正十二年九月一日、震火災に罹り、本尊は堂宇と共に燒失した。其後、新に尊像を造立されたが、堂宇が未だ復興を見ぬので、今は本堂内に安置されてゐる。
附記。元、境内に觀音堂及び阿彌陀堂があつたが、觀音堂は、明治七年頃廢絶し、其、本尊三十三體は藥師堂に移して安置したが、大震火災に焼失して、今は僅に其一體を存するのみである。同阿彌陀堂は、明治七年頃、相澤墓地附近に移轉、其本尊は極彩色の坐像で、現存して居る。
檀家は千五百戸。
中典第一世長覺法印。寛永二年中興。正保二年二月二十日寂。
第二世快淸。
第三世淸賢。寛永二年四月十四日寂。
第四世淸順 慶安二年六月十八日寂。
第五世傳淸。正德三年五月三十日寂。
第六世辨雅。
第七世中興開山開央。寶歴二年四月二十三日寂。
第八世諦了。
第九世開實。
第十世慶祐。 明和九年三月二十九日寂。
第十一世惠行。
第十二世契實。
第十三世秀遍。
第十四世了遍。文化の頃住持。
第十五世盛雄。
第十六世尊惠。
第十七世圭嚴。嘉永七年七月十二日寂。
第十八世覺算。文久三年五月寂。
第十九世玉宥。明治八年七月十七日寂。
第二十世妙用明治二十年八月一日寂。
第二十一世興嚴。大正十三年七月二七日寂。
第二十二世興人。現住。(「横浜市史稿 佛寺編」より)


海龍山増徳院の周辺図


参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿 佛寺編」