武王山安養院|北条時頼が「摩利支天」を安置し建立、豊島八十八ヶ所、板橋七福神の弁財天
安養院の概要
真言宗豊山派寺院の安養院は、武王山最明寺と号します。鎌倉中期正嘉元年(1257)に、最明寺北条時頼が諸国行脚のみぎり、持仏「摩利支天」を此地に安置し一宇を建立して創建されたと伝えられます(同様の言い伝えは千住安養院にも残ります)。江戸霊雲寺浄厳律師の高弟の祐淳大比丘が元禄元年(1688)に中興開山、近郷の真言宗の中心勢力となり多くの末寺を擁していました。豊島八十八ヶ所霊場発番札所、板橋七福神弁財天です。
山号 | 武王山 |
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院号 | 安養院 |
寺号 | 最明寺 |
住所 | 板橋区東新町2-30-23 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 豊島八十八ヶ所霊場発番札所、板橋七福神弁財天 |
安養院の縁起
安養院は、鎌倉中期正嘉元年(1257)に、最明寺北条時頼が諸国行脚のみぎり、持仏「摩利支天」を此地に安置し一宇を建立して創建されたと伝えられます(同様の言い伝えは千住安養院にも残ります)。江戸霊雲寺浄厳律師の高弟の祐淳大比丘が元禄元年(1688)に中興開山、近郷の真言宗の中心勢力となり多くの末寺を擁していました。
いたばしの寺院による安養院の縁起
鎌倉中期正嘉元年(1257)に、北条時頼が諸国行脚のみぎり、持仏「摩利支天」を此地に安置し一宇を建立したことに始まるという。
延宝年中火災により諸堂宇灰燼に帰したのを、元禄元年(1688)に江戸霊雲寺浄厳律師の高弟の祐淳大比丘が再興し、阿弥陀三尊を本尊として、本堂・庫裡・大師堂・鐘楼・山門等を造立して寺院の形態を整え、安養院と称し、近郷の真言宗の中心勢力となった。後に西新井大師総持寺末の客末に列し、上板橋村の長命寺をはじめ文殊院・宝蔵院(当寺に合併)・宝珠院(当寺に合併)・両眼院(当寺に合併)等を末寺として大いに栄えた。
明治13年(1880)に火災により宝蔵を焼き、従来の古文書・什器等の大半を消失し僅かに「厨子入釈迦四面像」「紅頗梨色阿弥陀像」等少数を残すのみとなった。
65世宥和権大僧正が住職となるや、大正6年に本堂・鐘楼等を大いに改め、昭和4年には庫裡を他より移築して寺観を一変して今日に至る。(いたばしの寺院より)
いたばしの寺院による安養院の縁起
(上板橋村)安養院
新義眞言宗足立郡西新井村總持寺末、武王山最明寺と號す、本尊阿彌陀は紅頗梨色尊形と號す、脇に観音勢至を安ず、幷に運慶の作と云、法流中興祐渟寶永元年七月八日寂す、當寺は北條相模守時賴の中興なれば寺號を最明寺と云、又武徳を表して山號に取ると云、正保の頃まで門徒寶珠院の傍に時賴の影堂存し、同邊に最明寺塚と云塚あり、又堂坂最明寺腰掛松などもありしが、九十年前枯しと云、是皆口碑に傳るのみなれど、堂松の稱呼によれば左もあらんか、又天永貞治文明の古碑などあれば古刹なることは論なし、
什寶釋迦像一龕。堂中に安置す、赤栴檀を以て毘首羯摩が作る處と云、四面巌石の彫刻ありて南面は華嚴説法場に擬し、巌窟中に釋迦像を安し、兩扉に目蓮迦葉をえれり、其下の窟中は釋迦降誕の像を模し、北面は入滅の像にて是も窟中に刻し、降誕の像と表裏をなせり、此餘大阿羅獏幷十大弟子其外種々の雕鏤あり、縁起に云根本開基は一千餘年の事なれば悉く記しがたし云々、中古武田信玄守本尊たりしを紀州家に轉傳し後故ありて當寺我師に寄進、且其時の添状等ありとのす、我師とさせるは中興祐渟のことなるべし、添状は何頃か失へり、
鐘樓。元禄二年鑄造の鐘を掛
寺中
寶珠院。如意山と號す、本尊立像の地蔵を安す、長八寸慈覺大師の作と云、
寶蔵院。金剛山と號す、本尊薬師日光月光十二神将及辨天地蔵を置、(いたばしの寺院より)
安養院所蔵の文化財
- 銅鐘(国重要美術品)
- 紅頗梨色阿彌陀如来坐像(板橋区指定文化財)
- 安養院釈迦四面像(板橋区指定文化財)
- 安養院のカヤ(板橋区指定天然記念物)
- 安養院文書
安養院のもと末寺・塔頭
安養院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「いたばしの寺院」