無量山法問寺|南葛八十八ヶ所、荒綾八十八ヶ所
無量山法問寺の概要
浄土宗寺院の法問寺は、無量山光明院と号します。永禄2年(1559)穂蓮社安誉虎覚上人が開山、中島種広が開基となり創建したと伝えられます。南葛八十八ヶ所霊場45番札所、荒綾八十八ヶ所霊場37番札所です。
山号 | 無量山 |
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院号 | 光明院 |
寺号 | 法問寺 |
住所 | 葛飾区青戸6-16-20 |
本尊 | 阿弥陀如来・観音勢至ニ菩薩・迦葉阿難ニ羅漢像 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 南葛八十八ヶ所霊場45番札所、荒綾八十八ヶ所霊場37番札所 |
法問寺の縁起
法問寺は、中島種広(鋭宏博心信士)が開基、穏蓮社安譽上人雲潮虎角大和尚が開山となり永禄2年(1559)創建したといいます。第一世雲潮虎角大和尚は当寺を創建の後、生実大巌寺第二世となった他、第四世誓蓮社本誉重阿路白大和尚は小金東漸寺・駿河宝台院・新田大光院・鎌倉光明寺・三縁山増上寺の住職を勤めるなど、法問寺は名僧を輩出したといいます。
葛飾区寺院調査報告による法問寺の縁起
永禄2年(1559)中島種広創立、穏蓮社安誉虎覚上人開山。当初は現在地より約100メートル東南にあったが、享保14年(1729)、幕府勘定吟味役井沢惣兵衛の中川開削のため現在地に移った。寺に安置する呑竜上人は子育て呑竜として、遠近からの参詣者で賑わったという。墓地に開基中島佐太郎種広の墓、門前左側に施餓鬼音楽法要の碑がある。(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告より)
新編武蔵風土記稿による法問寺の縁起
法問寺
浄土宗下総国小金東漸寺末、無量山光明院と号す。開山安誉、文禄2年2月4日寂す。本尊弥陀は毘首羯摩の作。
稲荷社、地蔵堂。(新編武蔵風土記稿より)
新編武蔵風土記稿による法問寺の縁起
武州葛飾郡西葛西領青戸村
無量山光明院法問寺
創建者人皇百七代正親町院御宇永禄二己未年也。至今文政三庚辰経二百六十有二年、安譽虎角上人来于茲開く創於当寺、開基檀主之俗姓等未考只在木牌壱基、已当時其後裔等更難識也
本堂東六間向七間
厩舎三間五間
御除地境内三反六畝歩
御年貢地高拾石七斗四升壱合
開基檀主
法号鋭宏博心信士天正十二公申年三月二十日
開山並歴代事略
開山穏蓮社安譽上人雲潮虎角大和尚
姓ハ者飯田氏甲州府中之人也十三歳ニ而投于道譽上人薙染ス稟性聡敏博覧強記超絶常倫所世知也、永禄二年開創於当寺住于此凡十六年其后遊化諸国弘通宗教住生実大巌寺為第二主遂文禄二癸巳二月四日遷神彼山
二世泰蓮社琴世超傳大和尚。
後移住京都慶長十五庚戌年六月十一日寂
三世直蓮社傳譽波的大和尚。
後移住勢州松坂樹教寺慶安元戊子年八月廿一日寂于彼所
四世誓蓮社本誉重阿路白大和尚。
未詳其氏族豆州人也稟承大巌寺随流公法水智道兼備所世知也、寛永十八年住佛法山為第十主少頃移住駿府寳臺院。大樹君猷廟遥聞師之道名命住新田大光院不幾又転住鎌倉天照山、万治二癸亥年三恭、釣命為三縁山第二十四主遂寛文四甲辰九月八日遷神塔于彼山頂也(新編武蔵風土記稿より)
法問寺所蔵の文化財
- 施餓鬼音楽法要碑 1基(葛飾区指定有形文化財)
法問寺の周辺図