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光明寺|大田区鵜の木にある浄土宗寺院

光明寺の概要

浄土宗寺院の光明寺は、大金山宝幢院と号します。光明寺は、天平年間(729~749)に行基(668~749)が開創、のち弘仁年間(810~824)に、空海(774~835)が再興して、関東高野山宝幢院と称したと伝えられる名刹です。寛喜年間(1229~1232)になって、浄土宗西山派の祖、善慧証空(1177~1247)が再興して浄土宗にかわり、関東弘通念仏最初の道場となり、大金山宝幢院光明寺と称するようになりました。第3世行観覚融は、空海の興した密教の道場が浄土宗にかわったため、空海の興した密教の道場が消滅してしまうことを惜しみ、別に真言宗高畑宝幢院を創建、当寺は寺号の光明寺を、創建した真言宗寺院は院号の宝幢院を、通称したといいます。

光明寺
光明寺の概要
山号 大金山
院号 宝幢院
寺号 光明寺
住所 大田区鵜の木1-23-10
本尊 阿弥陀三尊
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



光明寺の縁起

光明寺は、天平年間(729~749)に行基(668~749)が開創、のち弘仁年間(810~824)に、空海(774~835)が再興して、関東高野山宝幢院と称したと伝えられる名刹です。寛喜年間(1229~1232)になって、浄土宗西山派の祖、善慧証空(1177~1247)が再興して浄土宗にかわり、関東弘通念仏最初の道場となり、大金山宝幢院光明寺と称するようになりました。第3世行観覚融は、空海の興した密教の道場が浄土宗にかわったため、空海の興した密教の道場が消滅してしまうことを惜しみ、別に真言宗高畑宝幢院を創建、当寺は寺号の光明寺を、創建した真言宗寺院は院号の宝幢院を、通称したといいます。

「大田区の寺院」による光明寺の縁起

寺伝では天平年間(729~749)に行基(668~749)が開創し、のち弘仁年間(810~824)に、空海(774~835)が再興して、関東高野山宝幢院と称し、真言宗の七堂伽藍が整っていたと伝えられている。
その後、寛喜年間(1229~1232)になって、浄土宗西山派の祖、善慧証空(1177~1247)が再興して浄土宗にかわり、関東弘通念仏最初の道場となり、大金山宝幢院光明寺と称するようになった。
3世行観覚融は、空海の興した密教の道場が浄土宗にかわったため、消滅してしまうことを惜しみ、別に高畑(西六郷)に真言宗の一寺を建立し、同じく大金山宝幢院光明寺と命名し、前者は寺号を、後者は院号を常時称することとした。なお高畑宝幢院は、のちに大網山と改称した。
延応元年(1239)に、浄土宗鎮西派の第3祖然阿良忠(1199~1287)が中興し、このときから鎮西派にかわり、現在に至っている。(「大田区の寺院」より)

新編武蔵風土記稿による光明寺の縁起

(鵜ノ木村)光明寺
境内除地凡一萬坪。是も村の南方にあり。境内も元は今より廣かりしに故有て慶長の頃せばまりしと云。大金山宝幢院と号す。浄土宗京都知恩院末、中古善導大師の像当寺の池中より出現せしことありしに、時の住持記主禅師、彼大師善惠證空上人寛喜年中当寺を草創せり。其由来を尋るに、是よりさき弘法大師当所へ来りて勤業ありしのち、一寺となりてありしを上人有縁の地なればとて、密教の道場を改めて浄土の寺院とせられけるとぞ。さてこそ第三世行観上人、大師のあとの湮没せんことをおそれて、別に高畑村へ真言の寺院をひらきしといへり。事は宝幢院の條下につきて見るべし。抑善惠上人の事實を尋るに、寺傳に云、上人俗姓は源氏、村上天皇の皇胤加賀守親季が長男なり。治承元年11月9日生る。甫め14歳法然上人の弟子となり。道徳の聞えあり。宝治元年11月26日寂す。歳71、善惠国師と謚せり。上人遷化の後第三世までは西山派なりしに、第四世記主禅師の時に至り鎮西派に改めてより、今も其教を奉ぜり。故にこの禅師を中興の開山とす。
惣門。柱間9尺東向、門外に関東弘通念仏最初の道場とかきししるしを建たり。門を入り右に清閑院と云う塔頭ありしに、今は廃して蹟のみのこれり。
中門。惣門の中にあり。是も東向。
客殿。8尺四方。是も東向光明宝林の四縁山大僧正満空書とあり。本尊観世音立像3尺なるを安ず。その余記主禅師位牌及木像等を安置せり。
宝物。
扇面一枚。開山善惠上人、奥州白川関にて詠ぜし和歌を、上人の自ら片かなを以て書せしなり。
袈裟二領。一は開山善惠上人の用ひし袈裟なり、一は鎌倉光明寺記主禅師の着用せし袈裟なり。
印一顆。芝増上寺中興開山観智国師の所持なりしと云。
六字名号二幅。一は円光大師の筆、一は観智国師の書なり。
自然木の佛像一体。
円光大師木像一体。長3寸5分。大師の自作なり。
名号石一顆。讃岐国坂田より出現せり。坂田にて貝の鳴しことありし時、円光大師六字の名号を石に彫りて与へしかば、其声止みぬと、是も浮屠氏の虚誕なるべし。
経文。経文の残骸にて、中将姫の書なりと云へど、筆勢も遵勁なれば男子の書なるべし。
善導大師像一体。立像5尺ばかり。年暦しらず。当寺の池中より得たり。弘法大師の作なるべしといふ。本堂に安ぜり。
額一面。大寶王の三字を書す。弘法大師の筆なり。この額は弁天の社に掲げありしかど、其社は廃せり。今書院の前に弁天の祠あるは其蹟なりと傳ふ。
雷斧一挺。長1尺4寸周7寸。
鐘楼。本堂に向て右方丘上にあり。鐘の径り3尺余。銘は考證に備ふべきことなく、且享保年間の撰なればりゃくせり。
雷留観音堂。中門を入て右にあり。2間半に3間半。観音立像3尺、殊勝の古佛なり。裾の方焼損じてあり。当寺縁起に、寛喜の頃いづれかの年か6月9日、開山善惠上人鎌倉八幡宮へ17日通夜し、満ずる翌朝門外に異僧に逢ひしが、彼僧此木像を授て去れり。この像しばしば光明を放ちければ、当寺を光明と号せりと。この寺之境内廣かりし頃は、この堂も今の処よりはるかに隔てあり。逢い傳ふ新田義興の霊雷となりて、江戸遠江守を追ひし時かたへの辻堂をさして逃げると「太平記」に載せたるは、則この辻堂のことにて、昔の所にありしころは、人家をはなれてありしさまおもひみるべし。その時雷火を防ぎし霊験あるにより、この名を負へりと。像のたたれしもこの時のことなるが、遥の後当寺の境内せばまりし頃、改めて堂を此地へ構へりと云ふ。
腹帯地蔵堂。是も中門を入て右にあり。堂は9尺に2間。本尊立像長8寸、弘法大師の作なり。腹帯と云こと縁故あらん。未だ詳にせず。
弁天社。中門を入て左にあり。2間に3間、神体1尺2寸。宝珠をまきし蛇形なり。年代を傳へず。井伊掃部頭納めしと云。右に宇賀神の像ありしなり。
熊野権現龍爪権現合社。中門を入て左の方小高き処にあり。前に鳥居を建てり。
池。書院の前にあり。光明寺池と云。東西150間南北50間許。相傳ふこの池古の多摩川筋にて、矢口村の沼に続しと、近き頃までは池と沼との間に塘ありしに、今は古のさまを失ひ、沼も亦水田となれり。或時この池の岸を修造せんとて、側の山の根を穿ちしに、石槨を得たり。其中に首領より手足に至るまで全く存せる枯骨あり。何れの年いかなる人の葬所にや。今石碑を立て入定の僧の屍骸ならんと、銘文に云へども、素より石槨中誌銘等もなかりしといへば、其實はしるべからず。境内背後の山に龍燈松と云松あり。此境内にたまたま龍爪権現あるによりてかく名付しにや。この松いつのころにか枯れていまはなし。
古碑。境内鐘楼の傍にあり。相傳ふ当寺境内に古碑ありしに、素より○碑となり又は文字読得ざるも多ければ、それをばここに埋めたりとて、其上に碑を建たり。側に貞永より天文に至るまでの古碑三十基余を積たり。されど法謚もなく年月をのみ刻みたるもの多ければ、今其年月法謚など見えたる碑を左にのせたり。明徳4年阿闍梨性賢、嘉吉3年道秀禅門、文安2年3月2日覚仙阿闍梨、文明4年10月慧蓮、明応2年12月11日祐林禅尼、文亀2年逆修秀意、永正2年妙心禅尼、永正7年6月28日妙忍禅尼、天文3年甲午性範大徳。
稲荷社(藤森稲荷神社)。大門前古松の傍にあり。藤森稲荷社と号す。(新編武蔵風土記稿より)


光明寺所蔵の文化財

  • 木造四天王立像(東京都指定文化財)
  • 梵鐘享保2年(1口)銘
  • 板碑群約40基

光明寺の周辺図


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