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来迎院|品川区大井にある天台宗寺院

来迎院の概要

天台宗寺院の来迎院は、鹿島山常林寺と号します。安和2年(969)9月19日、南品川の常行三昧寺(現、常行寺)の住僧法印尊栄が当地に鹿島社(鹿島神社)と共に当寺を創建して、鹿島示現山常住鶴林寺来迎院と称しました。天保4年(1833)には上野寛永寺の塔頭涼泉院(廃寺)の住職が代々当寺の住職を兼務することになり、このとき鹿島山来迎院と改称しました。

来迎院
来迎院の概要
山号 鹿島山
院号 来迎院
寺号 常林寺
住所 品川区大井6-18-8
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 もと鹿島神社別当



来迎院の縁起

安和2年(969)9月19日、南品川の常行三昧寺(現、常行寺)の住僧法印尊栄が当地に鹿島社(鹿島神社)と共に当寺を創建して、鹿島示現山常住鶴林寺来迎院と称しました。天保4年(1833)には上野寛永寺の塔頭涼泉院(廃寺)の住職が代々当寺の住職を兼務することになり、このとき鹿島山来迎院と改称しました。

「品川区の文化財」による来迎院の縁起

安和2年(969)9月19日、南品川の常行三昧寺(現、常行寺)の住僧法印尊栄が現在の地に鹿島社(鹿島神社)を創立し、共に当寺を創建して、常行寺の末寺とし、鹿島示現山常住鶴林寺来迎院と称した。其の後当寺は無住となり大破したが、貞和3年(1347)に了覚法印という僧が来住して中興し示現山覚林寺観音院と改称した。
江戸期に入って、この一帯は将軍の放鷹の地となり、将軍義光が鷹狩りのため当寺に来遊したとき、この附近の景色を賞して、当寺の境内に休息所を建てた。家光は鷹狩りのつど、この休息所で休憩し正保年中には堀田加賀守が将軍に茶を献じたのでこの休息所は大井の御殿と呼ばれ、また当寺は御茶屋寺とも呼ばれている。また将軍義光は当寺の本尊薬師如来を厚く尊崇し、正保2年(1645)には42歳の厄年にあたって節分の日当寺に親しく参詣したと伝えられている。
江戸期には当寺の境内は桜が多く植えられていたので、桜の名所として開花の時期には杖を引く者が多かったというが、近世に入って当寺は江戸郊外の風光のよい場所として知られ、将軍の来遊も得てその尊崇をうけたことが窺える。
天保4年(1833)には上野寛永寺の塔頭涼泉院(廃寺)の住職が代々当寺の住職を兼務することとなり、このとき鹿島山来迎院と改称した。(「品川区の文化財」より)

新編武蔵風土記稿による来迎院の縁起

鹿島社別当常林寺
除地2段16歩。社地の北に続けり。天台宗にて郡中南品川宿常行寺末、爾現山来迎院と号す。寺伝に云当寺の本尊薬師は慈覚大師の彫刻なり。開山法印尊栄大師の命を受て此所に鹿島社を創立し、又精舎をも建立し此像を安置せり。後星霜をへて貞和3年了覚法印と云沙門当寺を中興して堂舎も壮麗なりしとぞ。
天正の末年より此邊にて御放鷹などありし時は、屡当寺へ渡らせたまひしが、正保22年別に境内の地へ御茶屋を建らる。大猷院殿の時本尊薬師の伝来を尋ねさせられしかば、時の住僧其由来を申上しより後は永く御祈祷所となれり。御歳42の御厄歳に、当山の御殿は恵方なればとて節分の日渡御ましまして御祈を命ぜらる。又一年此御茶屋にて堀田加賀守御茶を點じ奉りし事有しと云。其後何の頃にや御茶屋破損に及びしかば、其儘廃せられしなり。今は其跡に鹿島の本地十一面観音の堂を建置り。又云貞享の頃連年旱魃ありしが、時の住僧栄往法印村内九頭竜権現の社地なる柳の清水と云を加持水となし、当社に於いて祈雨の神事を行ひしに、忽好雨降て其年豊なりしとなり。今もこの遺例によりて毎年6月中旬法楽の神事あり。
客殿7間に6間半南にむかふ。
寺宝
不動尊台像一幅。智證大師の筆と云。
古鰐口一口。其圖上の如し。
観音堂。此所は即御茶屋のありなりし処なり。本尊十一面観世音を安置す。(新編武蔵風土記稿より)


来迎院所蔵の文化財

  • 来迎院石造念仏講供養塔3基(品川区指定文化財)

来迎院石造念仏講供養塔3基

江戸時代に盛んに行われた念仏講の供養塔で、右側の堂内に2基、真ん中の堂との間に1基が建てられている。
堂内の地蔵菩薩像を彫った舟形の2基の塔は、明暦2年(1656)と万冶2年(1659)の造立で、堂外にある6字名号(南無阿弥陀佛)と彫った笠塔婆型の塔は、寛文7年(1667)の造立である。いずれも江戸時代の初期に、大井村に念仏講が存在していたことを示す資料として貴重である。
この場所は、もともと来迎院の境内であったが、道路建設のために現在のようになっている。(平成9年3月31日、品川区教育委員会掲示より)

来迎院の周辺図


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