白鬚神社|隅田川七福神の寿老
白鬚神社の概要
白鬚神社は、天暦5年(951)に慈覺大師が関東下向時に、白鬚大明神の御分霊を当地に祀ったと伝えられています。天正19年(1592)には、時の将軍家より神領2石を寄進されました。隅田川七福神の寿老神としても親しまれています
社号 | 白鬚神社 |
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祭神 | 猿田彦大神 |
相殿 | 天照大御神、高皇産霊神、神皇産霊神、大宮能売神、豊由気大神、健御名方神 |
境内社 | 水神社、三峯社、諏訪神社 |
住所 | 墨田区東向島3-5-2 |
祭日 | 例祭日6月7日 |
備考 | 隅田川七福神の寿老神 |
白鬚神社の由緒
白鬚神社は、天暦5年(951)に慈覺大師が関東下向時に、白鬚大明神の御分霊を当地に祀ったと伝えられています。天正19年(1592)には、時の将軍家より神領2石の寄進を受けたといいます。明治40年諏訪神社を合祀しました。
新編武蔵風土記稿による白鬚神社の由緒
(寺嶋村附持添新田)白鬚社。
村の鎮守なり。相傳ふ当社は天暦5年元三大師関東下向の時、江州志賀軍打颪より勧請し、天正19年社領2石を給ひし由。されと今は免除の地なく社地のみ僅の除地なり。神体は元三大師の作長1尺の立像也。左右に諏訪と稲荷を安す。本地不動は坐像長4寸許興教大師の作。今は別当寺の本山蓮花寺に在り。
別当西蔵院
新義真言宗村内蓮花寺末、白鬚山と号す。大永元年の起立なり。当寺に桑原中納言と言へる人納めし雷除日丸天満宮を安す、坐像にて長8、9寸。
諏訪社、稲荷社。 (新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による白鬚神社の由緒
天暦5年(951)に慈覺大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここに祀ったと、社伝の記録は伝えている。天正19年(1592)には、時の将軍家より神領2石を寄進された。
当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生まれた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が、文化12年に奉納したもので、其の信仰のほどが偲ばれる。明治40年には氏子内の諏訪神社を合祀した。(白鬚神社由来より)
東京都神社名鑑による白鬚神社の由緒
天暦五年(九五一)慈覺大師が関東へ下向のおりに、夢告により近江国志賀郡境打颪(現滋賀県高島町)に鎮座する白鬚大明神の分霊をこの地に祀ったと伝えられる。天正十九年(一五九一)時の将軍家より神領二石を賜わる。元治元年拝殿を新築、明治二十一年には本殿・幣殿・拝殿を改修する。同三十一年鳥居改築に小松宮殿下より扁額を奉献され、参拝される。
明治四十年氏子内の諏訪神社を合祀する。(東京都神社名鑑より)
「墨田区史」による白鬚神社の由緒
牛島神社と共に、本区内でも屈指の古社である。祭神は、主神猿田彦命のほか四神であったが、明治四十年(一九〇七)に同社南にあった諏訪神社の祭神健御名方命を合わせて祭った。「江戸名所図会」は「祭神は猿田彦命なり。祭祀は九月十五日に執行せり。別当は真言宗にして西蔵院と号く。相伝ふ。天暦五年(九五一)辛亥慈恵大師関東下向の頃、霊示によりて近江国志賀郡打下(滋賀県高島郡高島町)よりこの地に勧請し給うとなり。天正十九年(一五九一)に至り神領を付し給ふ」と記しており、境内の、西蔵院住職興元選、加藤千蔭の享和二年(一八〇二)の社碑も同様の略縁起を記し、延寿と航海安全の神として霊験あらたかなりとも書いている。
社殿は、元治元年(一八六四)に造営された白木造りで、区内では戦災を免れた貴重な建物の一つである。本殿前に、文化三年(一八〇六)銘の、浅草山谷の料てい八百善や吉原松葉屋等が寄進したこま(狛)犬があるほか、境内には多数の石碑がある。
墨水三絶の碑
佐羽淡斎の詩を巻菱湖がてん額し、大窪詩仏が書いている。文政五年(一八二二)建立。(碑文省略)
鷲津毅堂の碑
三条実美てん額、厳谷一六書による毅堂の伝記碑である。毅堂は名を宣光といい、幕末・明治初期に活躍した漢学者で、明治政府の官職を歴任し、明治十五年(一八八二)に司法権大書記官となったが、同年秋に五八歳で没した。毅堂はまた、小説家永井荷風の母方の祖父でもある。明治十六年の建立。
隅田川観楓詩並序の碑
天保七年(一八三六)に館柳湾の選によって黒堤(註:墨堤か)に建立され、後年に神社境内に移されたものである。碑文は「墨堤植楓記」というべきもので、石浜(台東区内)の料ていの主婦が、隅田村から小梅村に至る堤上に、かえで(楓)を植えたこと、紅葉の明るさ、美しさが秋の日に映えて人の目を楽しませていることなどを記し、七言絶句五首を添えている。なお、この主婦というのは料てい川口屋の直のことで、彼女は清元の名手であり、また、女傑でもあったという。
このほか境内には、四世今日庵元風句碑、浜辺黒人の狂歌碑である黒人塚、中原耕張の筆塚など著名な碑がある。(「墨田区史」より)
白鬚神社所蔵の文化財
- 岩瀬鴎所の墓碑
- 鷲津毅堂之碑
- 石燈籠
- 文化三年銘狛犬一対(墨田区登録文化財)
岩瀬鴎所の墓碑
江戸時代末期の外交家。文政元年江戸に生まれました。名は忠震で、鴎所の号は隅田川の辺に住んだことに由来します。幕府の徒頭設楽貞夫の第三子で、天保11年(1840)、旗本岩瀬忠正の養子になりました。嘉永2年(1849)老中安部正弘から目付に抜擢されました。鴎所は昌平坂学問所で漢学を学ぶにとどまらず蘭学も学び、当時、外国に事情認識においては鴎所が一番といわれました。幕府の鎖国政策を非難したほか、砲台を築き軍艦を造り、講武所と蕃所調所を設け海軍伝習を始めるのにも参画しました。後に将軍徳川家の継嗣選定の問題で、新任の大老井伊直弼と対立したため、安政6年8月に官位を奪われ、蟄居を命ぜられました。
その後向島に隠居し、もっぱら読書文芸にふける悠々自適の生活を送りましたが、文久元年(1861)7月16日、44歳で没しました(平成16年3月 墨田区教育委員会)
白鬚神社の周辺図
参考資料
- 東京都神社名鑑
- 新編武蔵風土記稿
- 「墨田区史」