押上天祖神社|旧称朝日神明宮、旧村社
押上天祖神社の概要
押上天祖神社は、墨田区押上にある天祖神社です。押上天祖神社は、延元年間(1336-1340)より祀られていたと伝えられ、江戸時代には朝日神明宮と称していたといいます。明治5年押上村の村社に列格したといいます。
社号 | 天祖神社 |
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祭神 | 天照大神、八幡大神、春日大神 |
相殿 | - |
境内社 | 三峯社 |
住所 | 墨田区業平2-13-13 |
祭日 | - |
備考 | 村社 |
押上天祖神社の由緒
押上天祖神社は、延元年間(1336-1340)より祀られていたと伝えられ、江戸時代には朝日神明宮と称していたといいます。明治5年押上村の村社に列格したといいます。
境内掲示による押上天祖神社の由緒
押上天祖神社は、明治5年10月元押上村の村社に列し祭日は9月16日と定められて今日に及んでいる。その起因するところによれば、古く延元年間より祭ってあった。延元は建武の次で、南朝の忠臣楠正成公が湊川の合戦で戦死し、後醍醐天皇が吉野に行かれた頃で今から六百余年の昔に当る。
当時は押上と云ったかどうか分からないが、大昔は現在の東京の下町は海で、ところどころに島や浮洲があった。この辺は柳島と云われ早い時代に陸地となり人が住んだところとも伝えられている。其の後、花園天皇時代に神明社と称した。祭神は天照大神と八幡、春日両大神を祭ってある。
また一説には現在の京成橋附近で川が増水して堤防に押上げられてあった御神体を、当時附近の農民等が安置して祭ったとも云われている。その頃は下総国葛飾郡押上村で、其の後に武蔵国に編入され、明治5年村社に列する事となり、明治11年の記録には、武蔵国葛飾郡押上村之内字居村向耕地、田8畝18歩、この代金16円80銭、同村天祖神社、同所畑25歩、この代金2円50銭と云う文献が残っている。
天祖神社は、呼名を朝日神明宮と云われた時代があったそうですが、其の時代は神仏の混交時代で、徳正寺と云う寺が管理していたのが、明治5年に行われた神仏分離により、神官のいない為か牛島神社の区域であり、本社は牛島神社で、押上天祖神社は其の末社と云う事になっている。
又大正10年に大祭が行われ、同12年の関東大震災で社殿を焼失した。天祖神社はこの頃迄は平河橋4丁目地域にあったのが、後、昭和3年の区画整理で、現在地(業平2の13の13 )に替地になったのである。境内は272坪5合5勺、大空襲で焼失後社殿も再築されたが、昭和20年3月の戦災で、又も焼失した。そして昭和27年度大祭の折、再び新築し、続いて昭和32年の大祭には鳥居が再建され、又玉垣、塀、水屋等も出来、神社としての形態がととのったのであります。尚、終戦後の宗教法人法による神社許可となっている。昭和37年境内には社務所、会館を設立すると共に、従前の6ヶ町の外に新たに旧業平橋1丁目と、旧向島押上町が加わり、8ヶ町の神社となっている。
現在の大神輿は明治21年5月5日に新調されたもので、今までに関東大震災と戦災で二度に渡る災害にあったが、現在の神輿庫が奇蹟的に焼失をまぬかれたので大神輿も当時のままの荘厳華麗な姿を残して居ります。(境内掲示より)
東京名所図会による押上天祖神社の由緒
天祖神社
天祖神社は。押上町八十二番地字居村に在り。もと押上村の總鎮守にして神明社と稱せり。祭神は天照太神及び八幡、春日両太神とす。明治五年十月村社に列す。祭日は九月十六日なり。(東京名所図会より)
東京都神社名鑑による押上天祖神社の由緒
延元年間(一三三六-四〇)より祀ってあったとされ、後花園天皇時代に神明社と称した。江戸時代には徳正寺が別当であったが、明治初年神仏分離により牛嶋神社の末社となる。大正十二年関東大震災で社殿を焼失、昭和三年の区画整理で現在地に社殿が新築された。(東京都神社名鑑より)
「墨田区史」による押上天祖神社の由緒
旧押上村の鎮守で、古くは神明宮と称したが、社格制定の際に社名を改めた。(「墨田区史」より)
新編武蔵風土記稿による押上天祖神社の由緒
(押上村)神明社
村の鎮守なり。春日八幡を合祀す。此留璽の社と唱ふ。村民持。
末社稲荷、三峯。 (新編武蔵風土記稿より)
押上天祖神社の周辺図
参考資料
- 東京都神社名鑑
- 「墨田区史」
- 新編武蔵風土記稿