名越切通|逗子市の名所旧跡

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名越切通|鎌倉七口、名越坂

名越切通の概要

名越切通は、逗子市にある名所旧跡です。名越切通は、鎌倉と三浦半島を通じる道にあり、急峻な尾根を堀り割って造られた道(切通)で鎌倉七口の一つです。現在残されている切通は江戸時代に使われた道で、切通に面した崖のかなり上のほうに鎌倉時代の「やぐら」が見つかっていることから、鎌倉時代にはさらに上方を通っていたのではないかともいいます。明治時代にトンネル・横須賀線が開通するまで幹線道路として使用されていた遺構として国史跡に指定されています。

名越切通
名越切通の概要
名称 名越切通
区分 史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 逗子市小坪
備考 -




名越切通の由緒

名越切通は、鎌倉と三浦半島を通じる道にあり、急峻な尾根を堀り割って造られた道(切通)で鎌倉七口の一つです。現在残されている切通は江戸時代に使われた道で、切通に面した崖のかなり上のほうに鎌倉時代の「やぐら」が見つかっていることから、鎌倉時代にはさらに上方を通っていたのではないかともいいます。明治時代にトンネル・横須賀線が開通するまで幹線道路として使用されていた遺構として国史跡に指定されています。

逗子市教育委員会掲示による名越切通について

名越切通は、鎌倉から相模湾沿いに三浦半島を結ぶ交通路で、『吾妻鏡』天福元年(1233)8月18日条に「名越坂」として初めて登場し、明治時代になって直下を通る現在の横須賀線や県道のトンネルが開通するまで、長い間幹線道路として使い続けられた重要な道です。
急峻な尾根を堀り割って造られた切通は、時代が下るにつれて通行しやすいように改修したり、地震等で崩れては復旧を繰り返しているため、鎌倉時代の姿そのものではありません。しかし、その周辺には、横穴式の供養施設であるやぐらが約150基も集中する「まんだら堂やぐら群」や、死者を荼毘に付した跡など、中世の葬送に関する遺構が数多く分布するほか、切通の防衛にも関係すると考えられる人工的な平場や大規模な石切場跡(大切岸)が尾根筋に見られるなど、古都鎌倉の周縁の歴史的景観をたいへん良く残しています。(逗子市教育委員会掲示より)

新編相模国風土記稿による名越切通について

(大町村)
名越切通
東方三浦郡久野谷村の界にありて峠を界とす、左右より覆たる巌二所あり、【鎌倉志】に里俗是を大空洞照空洞と云ふとあり、【東鑑】天福元年八月の條に名越坂とあるは此道なるべし、(曰、前濱有死人、是被殺害者云々、御人等、武蔵大路・西濱・名越坂・大倉・横大路以下、固方々途路、有犯科者否、可捜求其内家々由、被仰下之云々、按ずるに今猶隣村三浦郡久野谷村にては名越坂と呼べり)又北方の山間に浄妙寺村に通ずる孔道あり、(新編相模国風土記稿より)

逗子市教育委員会掲示による名越切通について

名越切通は、鎌倉時代に尾根を堀り割ってつくられたとされる通行路で、鎌倉幕府の事蹟を記した『吾妻鏡』の天福元年(1233年)八月十八日条に「名越坂」として籠城するのが史料に見られる最初です。近世以降は「鎌倉七口」のひとつとしても数え上げられ、鎌倉と三浦半島方面とを結ぶ道として重要な役割を果たしてきました。切通の周辺には、鎌倉の防衛にも関係すると考えられる平場や切岸(人工的な崖)、やぐら(四角い横穴に石塔を建て、納骨・供養する施設)や遺体を火葬した跡なども多く分布しており、中世都市鎌倉の周縁の歴史的景観をたいへん良く残しています。
現在の切通のすがた
現在の名越切通の道筋には、尾根の岩盤を堀り割って道をつくり、両側が急な崖になっているところが3ヶ所ありますが、最も高く切り立ったこの部分を第一切通と呼んでいます。鎌倉時代に外敵の侵入を防ぐために、あえて狭くつくったと言われていますが、発掘調査を行なったところ意外な結果が明らかになりました。
現在私たちが歩いている切通は路面の幅が1~1.5mほどですが、その下に複数の古い道路面が重なって発見されました。最下層(現地表から約60cm下)の道路面は幅2mほどで、そこから18世紀後半以降に作られた陶磁器が出土しました。これによって、現在の道筋の地下に埋もれている最も古い道は、江戸時代に使われていたということがわかったのです。
その後、地震などによって両側の崖が崩れるたびに道が埋まり、そのつど整地・修復して新しい道をつくったため、どんどんかさ上げされて路面が高くなったと思われます。一時期は道幅を広げる工事も行われたようで、路面の幅が約3m、両側に排水のための溝も設けられていました。しかし、明治16年(1883年)にトンネル道路が、同22年(1889年)に横須賀線が開通すると、切通も幹線道路としての役割を終え、埋もれるがまま修復の手を加えられることもほとんどなくなり、最終的に現在のようなすがたになったと考えられます。
発掘調査では、鎌倉時代の路面は確認できませんでした。切通に面した崖のかなり上のほうに鎌倉~南北朝時代頃に掘られたと思われるやぐらがあることから、当時の道筋が今とあまり変わらないとすれば、その道は今よりずっと急坂で、高い位置を通っていたのかも知れません。
一方、時代が下がって、室町時代の僧堯恵は、名越切通の様子を「畳々たる巌をきり、山をうがち、旧跡の雲につらなる」と述べています(『北国紀行』)。中世の後半には、通行しやすいように掘り下げられていたことを示しているとも思われます。
鎌倉幕府執権北條氏によって鎌倉の守りの要としてつくられたと言われる名越切通は、当時のすがたそのものではないと考えられますが、重要な交通路として近代にいたるまで長く使われ続けてきた貴重な史跡であることに変わりはありません。(逗子市教育委員会掲示より)


名越切通の周辺図