清涼山覚永寺。石山合戦後に出家した井伊兵庫直重が赤坂一ツ木の居宅で開創
覚永寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の覚永寺は、清涼山と号します。覚永寺は、赤坂一ツ木に住んでいた井伊兵庫直重(法名釋専念、元和元年1615年寂)が、石山合戦後に出家、自宅内に庵室を結んで草創、文禄3年(1594)覺永寺と号したといいます。江戸城外堀工事に伴い、寛永12年(1635)赤坂台町へ移転、第二次世界大戦で消失、戦後当地へ移転したといいます。
山号 | 清涼山 |
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院号 | - |
寺号 | 覚永寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 横浜市青葉区元石川町6391 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
覚永寺の縁起
覚永寺は、赤坂一ツ木に住んでいた井伊兵庫直重(法名釋専念、元和元年1615年寂)が、石山合戦後に出家、自宅内に庵室を結んで草創、文禄3年(1594)覺永寺と号したといいます。江戸城外堀工事に伴い、寛永12年(1635)赤坂台町へ移転、第二次世界大戦で消失、戦後当地へ移転したといいます。
「赤坂區史」による覚永寺の縁起
真宗本願寺派覺永寺(山號清涼山、築地本願寺末)臺町四十五番地
當寺は文禄三年から赤坂一ツ木村に在つた寺で、寛永十二年に至つて、其地は御堀御用のために召上られ、替地として現在の寺地を給せられて、引移つたのである。
開基は専念、俗称井伊兵庫直重(元和元年九月十一日寂)で、貝塚庄赤坂一ツ木村に住し、代々浄土真宗の信徒であつたが、石山合戦の節、身は武門なるが故に本願寺方へ味方に参じ、其後剃髪染衣、釋専念といふ法名を受けて赤坂へ立歸り、阿彌陀如来を安置した草堂の側に庵室を結びたるに、歸依信敬の門徒次第に多く、文禄三年、本山に願ひ出て一宇を建立し、覺永寺といふ寺號を受けたのである。(「赤坂區史」より)
覚永寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 公式ページ:横浜市青葉区|覚永寺 kakueiji
参考資料
- 新編武蔵風土記稿