上白根稻荷社|池田金太宅の邸内稲荷として創建、上白根村の鎮守
上白根稻荷社の概要
上白根稻荷社は、横浜市旭区上白根町にある神社です。上白根稻荷社は、明和4年(1767)に池田金太宅の邸内稲荷として祀られ、その後上白根村の鎮守となったといいます。大正11年、神明社・第六天社・杉山社(現在のJA支所、北方台地住宅地)、と山王社(上白根病院中程)を合祀したといいます。
社号 | 稻荷社 |
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祭神 | 宇加之御魂命 |
相殿 | 天照大神、皇産神、大己貴命、日吉大神 |
境内社 | - |
住所 | 横浜市旭区上白根町221 |
祭日 | 例大祭9月29日 |
備考 | - |
上白根稻荷社の由緒
上白根稻荷社は、明和4年(1767)に池田金太宅の邸内稲荷として祀られ、その後上白根村の鎮守となったといいます。大正11年、神明社・第六天社・杉山社(現在のJA支所、北方台地住宅地)、と山王社(上白根病院中程)を合祀したといいます。
新編武蔵風土記稿による上白根稻荷社の由緒
(上白根村)
稲荷社
除地、三段、村の西の方にあり、上屋一間半四方、巽向なり、鳥居をたつ。(新編武蔵風土記稿より)
「神奈川県神社誌」による上白根稻荷社の由緒
創立年代不詳であるが、古来村の鎮守である。(「神奈川県神社誌」より)
「旭区郷土史」による上白根稻荷社の由緒
稲荷社(上白根町221)
由緒は不詳。大正十一年(一九二二)同所にあった無格社の神明社・第六天社・杉山社・山王社の四社を合祀した。昭和五十年に樹令三百年のシラカシ二本が名木古木の指定をうけた。境内にある内藤鳴雪の句碑は区内の史跡としても有名。(「旭区郷土史」より)
境内掲示による上白根稻荷社の由緒
明和四年(一七六七年)九月、正一位稲荷大明神(当時武蔵国都築郡白根村)、として(上・下合わせ五十戸)村に鎮座しました。上白根村二十八戸。
始め池田金太宅の屋敷稲荷だった。氏は元来甲州の人で商人として大成功を収めた後居住していたが、後に故郷に帰った。
屋敷跡が金太屋敷とよばれている。鳥居の右端に舟地蔵(享保四年一七一九七月上白根村総百姓と台座にかいてある)があり、その又右側です。
明治三年の神仏分離令により白根不動尊から白根神社が分かれ、これより上白根村だけの稲荷社となりました。
(中略)
大正十一年十一月七日に、神明社・第六天社・杉山社(現在のJA支所、北方台地住宅地)、と山王社(上白根病院中程)が稲荷社に合併され現在に至っている。(境内掲示より)
上白根稻荷社所蔵の文化財
- 内藤鳴雪の句碑
内藤鳴雪の句碑
大正12年(1923)5月5日、この地の鎮守である稲荷社の境内に俳人内藤鳴雪を迎え除幕式が行われました。ここ上白根で白痴吟社という俳句の会を主催していた高橋紅子(憲作)が句碑の建立を企画し、内藤鳴雪に原稿揮毫を依頼したところ、鳴雪は、「夫ハ夫たりてぞ松涼し 七十七鳴雪」と境内の夫婦松を詠みました。白痴吟社は寄附を募り、句を碑に刻み建立し、除幕式を行いました。
この句碑建立が縁となり白痴吟社では月々鳴雪に選句、添削を依頼していました。
内藤鳴雪(弘化4年(1847)-大正15年(1926)歿)は、伊豫松山藩士で維新後松山権少参事、学務官をへて文部省へ転任、その後辞官し舎監となり、舎生であった正岡子規の感化で俳句をはじめ、子規と共に明治年間の俳人として、また俳句雑誌「ホトトギス」の選者として知られています。
夫婦松は、枯れてしまいましたが、現在一部が碑の側の祠の中に祀ってあります。(横浜国際観光協会・横浜市教育委員会文化財課掲示より)
上白根稻荷社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「神奈川県神社誌」
- 「旭区郷土史」