畠山重忠古戦場跡|畠山重忠公碑、矢篦ヶ淵のさかさ矢竹を植樹
畠山重忠古戦場跡の概要
畠山重忠古戦場跡は、横浜市旭区にある名所旧跡です。畠山重忠古戦場跡は、鎌倉時代の武将で、源頼朝の忠臣だった畠山重忠が、鎌倉幕府内の諍いに巻き込まれて元久2年(1205)二俣川で、北條時政方と合戦した二俣川合戦場地です。畠山重忠が討死に際して、「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と矢篦二筋を地に突きさしたところ、この矢が自然に根付いて繁茂、「矢篦ヶ淵」と呼ばれていました。昭和40年代まで旭区役所北東側の土手一面に繁っていたものの消滅してしまったことから、当地に「さかさ矢竹」を植樹したといいます。畠山重忠公碑は、畠山重忠没後750年の昭和30年に鶴ヶ峰と深谷市の有志により建立されたそうです。
名称 | 畠山重忠古戦場跡 |
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みどころ | 史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 横浜市旭区鶴ケ峰 |
備考 | - |
畠山重忠古戦場跡の由緒
畠山重忠古戦場跡は、鎌倉時代の武将で、源頼朝の忠臣だった畠山重忠が、鎌倉幕府内の諍いに巻き込まれて元久2年(1205)二俣川で、北條時政方と合戦した二俣川合戦場地です。畠山重忠が討死に際して、「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と矢篦二筋を地に突きさしたところ、この矢が自然に根付いて繁茂、「矢篦ヶ淵」と呼ばれていました。昭和40年代まで旭区役所北東側の土手一面に繁っていたものの消滅してしまったことから、当地に「さかさ矢竹」を植樹したといいます。畠山重忠公碑は、畠山重忠没後750年の昭和30年に鶴ヶ峰と深谷市の有志により建立されたそうです。
新編武蔵風土記稿による畠山重忠古戦場跡について
(二俣川村)
舊跡古戦場
鶴ケ峰の邊をいへり、元久二年畠山次郎重忠、鎌倉よりの討手北條相模守と合戦して、討死せし所なり、
(東鑑の引用文省略)
今府中宿より南の方玉川をこへて、關戸の方鎌倉の古道あり、其道より南折して此所へ出しにや、
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(今宿村)
舊趾矢篦ヶ淵
村の東界ひ鶴ケ峯にあり、古へ畠山次郎重忠此地にて討死のとき、此處へ矢篦二筋を立おきしが、其竹自然と根を生じ、年々二本づつ生せしにより、この名おこれりと云、其竹近き頃迄もありしが、今は絶たりと。
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舊趾鎧ヶ淵
これも矢篦ケ淵のつつきにあり。
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舊趾屏風ヶ淵
これも同じ邊にあり、由来はつたへざれど、其さま屏風を立るが如くなる故に名付しならん。 (新編武蔵風土記稿より)
畠山重忠公碑について
畠山重忠公碑
鎌倉時代の武将・畠山重忠公は、元久二年(一二〇五年)六月にこの地で戦死しました。この碑は、重忠公没後七五〇年を迎えた昭和三〇年(一九五五年)六月に、地元・鶴ヶ峰と埼玉県川本村(現・深谷市)の有志により建立されたものです。(旭区誕生40周年記念事業実行委員会掲示より)
さかさ矢竹について
さかさ矢竹の由来
鎌倉武士の鑑、畠山重忠公は、この地で僅かの軍兵で、北條勢の大軍と戦って敗れた。公は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、矢篦二筋を地に突きさした。やがてこの矢が自然に根付き年々二本ずつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったと伝えられる。
このさかさ矢竹も昭和四十年代の中頃までは、現在の旭区役所北東側の土手一面に繁っていたが、その後すべて消滅してしまった。
この度重忠公没後八百年にあたり、ここにさかさ矢竹を植えて再びその繁茂を期待いたします。(横浜旭ロータリークラブ掲示より)
畠山重忠古戦場跡の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿