神戸神明社|伊勢大神宮が武州御厨庄榛谷峯に影向した地
神戸神明社の概要
神戸神明社は、横浜市保土ケ谷区神戸町にある神社です。神戸神明社は、天禄元年(970)伊勢大神宮が武州御厨庄榛谷峯に影向し給い、後川井へ、又二俣川に鎮座し、更に下保土ヶ谷の宮林の地に、そして嘉禄元年(1225)神戸に遷り、榛谷御厨八郷の総鎮守として祀られたといいます。元和5年(1619)宮居を神戸山々頂から当地へ遷座、慶安元年(1648)には社領4石1斗の御朱印状を拝領、明治6年村社に列格しています。
社号 | 神明社 |
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祭神 | 天照皇大神 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷社、厳島社、山神社、月神社、白鳥社、風神社、火神社、鹿島社、雷神社 |
住所 | 横浜市保土ケ谷区神戸町107 |
祭日 | 例大祭8月第四日曜日、6月16日、9月16日 |
備考 | - |
神戸神明社の由緒
神戸神明社は、天禄元年(970)伊勢大神宮が武州御厨庄榛谷峯に影向し給い、後川井へ、又二俣川に鎮座し、更に下保土ヶ谷の宮林の地に、そして嘉禄元年(1225)神戸に遷り、榛谷御厨八郷の総鎮守として祀られたといいます。元和5年(1619)宮居を神戸山々頂から当地へ遷座、慶安元年(1648)には社領4石1斗の御朱印状を拝領、明治6年村社に列格しています。
新編武蔵風土記稿による神戸神明社の由緒
(下岩間町)神明社
神戸町の内にあり、下岩間町まで大門通れり、今保土ケ谷及び神戸町の鎭守とす、四石一斗の御朱印は慶安元年に賜へりと云、社地も其内なれば別に歩數も定らず、此餘田畑四ケ所皆此近きあたりにあり、按に天文二十四年しるせしと云當社の縁起に、天祿元年庚午伊勢太神宮武州御厨屋の庄榛谷の峯に影向あり、それより川井へうつりたまひ、又二俣川へ鎭座あり、其後又下保土ケ谷の宮林と云所へ移りたまひしかば、同所八坂と云所に祀れり、この後二俣川の宮を假宿と號しけり、然るに嘉祿元(一二二五)年神託ありて宮作りのことを起しけるといへり、今神主がもとに傳ふる所は、この時始て鎭座なしけるやうにもいへり、もとより天祿の影向と云ものは、いとふるき世の事なれば果して其實をつたへしや否を知べからず、祭禮毎年六月十六日九月十六日、
鳥居。神戸町の中ほど坤の方にあり、木にて造れり、
大門。兩脇にわづかの石垣あり、高さ二尺ばかり、上に竹の矢來をなせり、この所は前に今井川流れて一の鳥居より十二町ばかりをへだつ。
石鳥居。大門の内にあり。
拝殿。石鳥居より十二三丁程の間をへだてゝあり。
本社。二間四方東南に向てたてり、この社は御打人の後再まで造營ありしと云、棟札の文に云、武藏國榛谷御厨八郷の鎭守、保土ケ谷神戸村、元和五己未年彌生とありて、裏に但馬守越後守、和田村田口平兵衞、靑木隼人佐、星川鄕和山加兵衞、小帷子足立久右衞門、苅部淸兵衞、丹解和泉守家秀、小野筑後守、岡崎米田皆平柏木七九郎など交名見ゆ、又その後に修造のときの棟札あり、權大僧都覺祐としるせり、其年代は傳へず。
末社五坐相殿社。社地に入て左の方にあり、豐受大神宮日神天神切部見目の五座の神を祀れり。
四坐相殿社。本社の左の方にあり、月神雨神風神山神等の四坐を祀れり。
御嶽社。社の後ろの方にあり。
神主岡田刑部。社地へ入る所の左の方にをれり、昔は小野新兵衞といふもの神主として、世々祀事を司りしが、いつの頃か今の刑部が先祖へその職を讓りしといふ、刑部は世系もさたかならず、昔の小野新兵衞が書し縁起一卷あり、その文を見るにことごとく採用すべきにあらざれど、古きものなれば
全文を左に載す。(文省略)(新編武蔵風土記稿より)
「神奈川県神社誌」による神戸神明社の由緒
天文二十四年(一五五五)の縁起によれば天禄元年(九七〇)伊勢大神宮が武州御厨庄榛谷峯に影向し給い、後川井に移り、又二俣川に鎮座し、更に下保土ヶ谷の宮林の地に遷ったので、其所の八坂という地に祀った。然るに嘉禄元年の神託により、神戸の地に神明の下宮を建て、神宮寺を満福寺と名付けたという。天正一八年徳川氏入国の時社殿を造営したと伝え、元和五年の棟札を存する由を新編武蔵風土記稿に記している。現社殿は明治二年天王御東行の時、本陣苅部清兵衛宅に臨時に建てた鳳輩安置所の材を下賜されて修営したものである。明治六年村社に列し、申請幣帛料供進の神社に指定された。(「神奈川県神社誌」より)
境内掲示による神戸神明社の由緒
神明社御由緒(旧伊勢神宮領榛谷御厨総鎮守)
今から一千年以上昔、保土ケ谷の地が榛谷(はんがや)とよばれていた平安時代の中頃、天禄元年(九七〇)当社の御祭神・伊勢の天照皇大神が、武州御厨の庄内、榛谷の峯に影向し、それから川井、二俣川、下保土ケ谷の宮林へと三遷の後、嘉禄元年(一二二五)神託があって、神明の下宮を建て、当地を神戸と号し、神宮寺を満福寺と名付け、経蔵堂を神照寺と称したという。これにより榛谷御厨八郷の総鎮守として広大な社領を免ぜられ、宮司以下数十人の禰宜社人・供僧・巫女が仕え、年に七十五度の祭祀を営み隆盛を極めたという。
その後、戦乱の時代に一時衰退したが、天正十八年(一五九〇)徳川氏入国の時、社殿の造営が行われ、御朱印地が安堵された。また元和五年(一六一九)宮居を神戸山々頂から現在の処に遷し、社殿の造営、社頭の整備が行われた。明治二年の修営時には、明治天皇御東行の時、本陣苅部清兵衛宅に臨時に建てられた鳳輦安置所の御用材を下賜された。明治六年村社に列せられ、神饌幣帛料供進の神社に指定された。
平成十年十月、鎮座一〇三〇年祭 当地遷座七七〇年祭 伊勢神宮遷座二〇〇〇年祭を記念して「平成の大造営」が行われ、三百八十年ぶりに御本社、摂末社神楽殿等総ての境内建物十二棟が一新された。
平成十二年四月、神奈川県神社庁献幣使参向神社に指定された。(境内掲示より)
神戸神明社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「神奈川県神社誌」