樹源寺。横浜市保土ケ谷区保土ヶ谷町にある日蓮宗寺院

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妙秀山樹源寺。妙秀日正開基、善通院日領上人開山

樹源寺の概要

日蓮宗寺院の樹源寺は、妙秀山善通院と号します。樹源寺は、かつては真言宗東方山醫王寺と称する巨刹寺院だったものの罹災、保土ヶ谷宿の経部吉次の娘(妙秀日正)が発願となり、醫王寺の地に善通院日領上人を開山として寛永5年に創建したといいます。明治26年鉄道敷設に伴い、本堂・庫裏を移設したといいます。

樹源寺
樹源寺の概要
山号 妙秀山
院号 善通院
寺号 樹源寺
住所 横浜市保土ケ谷区保土ヶ谷町3-172
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



樹源寺の縁起

樹源寺は、かつては真言宗東方山醫王寺と称する巨刹寺院だったものの罹災、保土ヶ谷宿の経部吉次の娘(妙秀日正)が発願となり、醫王寺の地に善通院日領上人を開山として寛永5年に創建したといいます。明治26年鉄道敷設に伴い、本堂・庫裏を移設したといいます。

新編武蔵風土記稿による樹源寺の縁起

(保土谷町)樹源寺
保土谷町の北側にて往還より十五間許退きてあり、日蓮宗身延久遠寺末妙秀山善通院と號す、寛永五年の頃某氏の女の發願により、僧の日領を開山として起立せしとぞ、かの女は同九年五月二十三日歿せり、法謚妙秀日正といふ、日領は明暦三年九月二十七日化す、かの僧の院號を善通と云、當寺の山號院號は開山開基の法謚の字をとりし事知らる、客殿五間半に四間、本尊三寶を安す境内の外に山一段一畝あり、これも境内つづきの居山なり。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿」による樹源寺の縁起

樹源寺
位置
樹源寺は、妙秀山善通院と號し、保土ヶ谷區保土ヶ谷町四百六十五番地に在る。
境内は四百二十一坪。日蓮宗總本山身延山久遠寺の末で、寺格は平僧六等である。
沿革
往古は東方山醫王寺と稱する眞言の巨刹で在つたが、德川氏の初、兵火に罹り唯藥師堂の一宇のみが山上に殘存ししてあつた。然るに寬永年間、當宿の豪族經部吉次の女、深く日宗に歸依し、薙髪して妙秀と號し、寬永五年、醫王寺の廢跡である欅樹の傍に庵を結び、善通院日了上人を招じて開祖とし、開山・開基の法諡の字を以て、妙秀山善通院と號し、欅樹の傍にあるを以て、樹源寺と稱した。降つて第十四世日閑上人の代、堂宇崩壊に歸し、之を再建したところ、幾許もなく火災に罹つて全燒し、再び工を起して伽藍を造營した。明治二十六年、鐵道開通に際し、本堂・庫裡は其線路に接近し、汽車煤煙のため危險なるを慮つて、同年第二十世日集上人の代、本堂竝に庫裡を現在の處に移轉し、且つ修繕を加へた。
本尊
本尊は一塔・兩尊・四菩薩・二大士・四天王である。
堂宇
現今の堂宇は、本堂桁行八間半、梁間四間半。内陣二間半、三間半。向拜二間七尺。草葺、四注造。・庫裡桁行七間、梁間四間、亞沿葺。・表門桁行九尺、梁間九尺、大正八年新築、瓦葺。等である。
境内堂
淸正公堂。二間、二間亞沿葺。由緒不詳。
藥師堂。九尺、二間、草葺。往昔眞言宗であつたときの殘存した堂を境内に移したものと云ふ。
境外堂
帝釋堂。宇元町にある。今は當山で進退してゐない。(「横浜市史稿」より)


樹源寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿」