西方山大仙寺。天禄年間創建、東国八十八ヵ所霊場
大仙寺の概要
高野山真言宗寺院の大仙寺は、西方山安樹院と号します。大仙寺は、神戸山惣持院神宮寺と号して天禄年間(970-973)に創建、その後衰微したものの、応永年間(1394-1428)に鎮淳法印(応永28年寂)が再興、西方山安樹院大仙寺と号して開山したといいます。東国八十八ヵ所霊場28番です。
山号 | 西方山 |
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院号 | 安樹院 |
寺号 | 大仙寺 |
住所 | 横浜市保土ケ谷区霞台15-16 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
大仙寺の縁起
大仙寺は、神戸山惣持院神宮寺と号して天禄年間(970-973)に創建、その後衰微したものの、応永年間(1394-1428)に鎮淳法印(応永28年寂)が再興、西方山安樹院大仙寺と号して開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による大仙寺の縁起
(保土谷町)大仙寺
保土谷町の西側にあり、海道より五十間ばかり西へ入てあり、古義眞言宗久良岐郡太田村東福寺末、西方山安樹院と號す、村の舊記によるに、いとふるき寺にして、圓融院の御宇天禄年中の起立にて、神戸山惣持院神宮寺と號せしが、其後衰微して星霜ふりしを、應永年中法印鎮淳中興せり、此時山號寺號等も改めしとぞ、かくて法印は同き二十八年五月四日寂せり、今是を開山とす、又遥の後寛文十年二月十日回禄にあひて記録以下烏有となりしにより、昔の事はつたはらずといへり、門は兩柱の間一丈、西方山の三字を扁す、客殿は六間に八間共に南に向ふ、本尊は彌陀の立像長三尺許、當寺境内の外に除地三段二畝二十八歩境内の地につゝけり、
寺寶十王畫像一幅。紀伊國高野の子院高室院より寄附せりと云、
鐘樓。門を入て右にあり、九尺四方、鐘の圓径三尺、享保七年の銘文あり、
阿彌陀堂。本堂の右の方にあり四間四方、西向なり、阿彌陀は坐像にして六尺ばかり、
稲荷社。除地居山の内にて境内に續けり、勧請の年代を傅へず、寶暦五年吉田家にこひて正一位の神位を授けらるといへり、
道祖神社。同所にあり少祠、(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿」による大仙寺の縁起
大仙寺
位置
大仙寺は西方山安樹院と號し、保土ヶ谷區保土ヶ谷町大字保土ヶ谷三十八番地にある。境内は六百二十五坪。中區南太田町東福寺末で、寺格は十一等である。
沿革
圓融天皇の天祿年中の起立で、往古は神戸山惣持院神宮寺と號したが、其後衰微して星霜を經、應永年中、法印鎭淳が中興し、今の山號・寺號に改めたと云ふ。
寛永十年二月十五日議定の關東古義眞言宗本末帳に、武州久良岐郡太田鄕東福寺末寺、大仙寺、寺内御免と見えてある。參覲交代等の際、東海道を往來して保土ヶ谷宿に休泊する者は、當寺に詣で、道中安全を祈願する例があつた。今の本堂は、寛文十年二月囘祿にかゝり、其後建立した所と云ふが、其年月は詳かでない。嘗て宿内に法禪寺と稱する同宗の寺があつたが、當寺に合併したと云ふ說がある。今、法禪寺迹と稱するのは其癈寺の舊域であると云ふ。大正十二年に、本堂・庫裡・玄關等の改築をした。
本尊
本尊は大日如來の坐像、長四尺、作者不詳。
脇本尊は阿彌陀如來坐像、長六尺。弘法大師・不動明王・毘沙門天である。
堂宇
現今の堂宇は、本堂 桁行八間半、梁間六間半、銅葺、四注造、向拜附。・庫裡桁行四間、梁間三間半、亞沿葺。・玄關桁行六間、梁間三間、亞沿葺。
鐘樓桁行二間、梁間二間、瓦葺。山門桁行二間、梁間一間半、瓦葺。元祿十四年建築、西方山の扁額が掲げてある。等である。
境内佛堂
地藏堂桁行一間、梁間四尺、亞沿葺。は由緒不詳。石造の地藏二軀が安置されてゐる。
阿彌陀堂は大正十二年の震災に倒壊して、未だ復舊を見ない。本尊は本堂内に移して安置してある。
附記。昔時は稻荷社があつて、寶歴五年、吉田家から正一位の位階を授けられたとあるが、明治の初に廢絶した。(「横浜市史稿」より)
大仙寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿」