医王山遍照寺。東国八十八ヵ所霊場
遍照寺の概要
高野山真言宗の遍照寺は、医王山延壽院と号します。遍照寺の創建年代等は不詳ながら、貞観18年(876年)に眞雅僧正が開創したといいます。慶興法印が元和4年に峯岡から当地へ移し中興したといいます。東国八十八ヵ所霊場27番です。
山号 | 医王山 |
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院号 | 延壽院 |
寺号 | 遍照寺 |
本尊 | 薬師如来像 |
住所 | 横浜市保土ケ谷区月見台38-31 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
遍照寺の縁起
遍照寺の創建年代等は不詳ながら、貞観18年(876年)に眞雅僧正が開創したといいます。慶興法印が元和4年に峯岡から当地へ移し中興したといいます。
新編武蔵風土記稿による遍照寺の縁起
遍照寺
帷子上町の北裏にあり、古義眞言宗久良岐郡太田村東福寺末、医王山延壽院と號す。開山の年代を傳へず、其後賢海といへる僧寛永十年再興せしにより此を中興開山とす、本尊は藥師なり、相傳ふ此本尊は弘法大師の作にしてもと郡中佛向村寶寺金堂の本尊なりしが、彼堂破却の後他へ傳りついに此寺の物となりて本尊とせしと云、長2尺8寸の坐像なり、客殿四間に四間半巽に向ふ、前に石階あり。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿」による遍照寺の縁起
遍照寺
位置
遍照寺は醫王山延壽院と號し、保土ヶ谷區帷子町三千二百三十二番地にある。境内は一段三畝十一歩。市内中區南太田町束福寺の末、寺格は十一等地である。貞觀十八年の開創で、眞雅僧正の開基した所であるが、其後兵火に罹り、記錄を燒失したので、沿革等は全く不明に歸したと云ふ。文祿三年三月に、慶興法印が再興したと傳へ、新編武藏風土記稿には、賢海法印が寛永十年に中興したとある。同法印を以て中興開山と唱へて居る。慶興法印は元和四午年四月十二日寂。往昔は同區内峯岡町にあつたが、(其舊地の邊に今尙、遍照寺橋。と唱ふる小橋がある。)天明五年十一月、第十六世の本圓が、先師第十一世龍鑁法印の遺志を承けて、現地に建立した。其れが今の本堂である。
本尊
本尊は薬師瑠璃光如來の木彫坐像、高二尺八寸、弘法大師作と云はれてゐる。(「横浜市史稿」より)
保土ケ谷区役所資料歴史を歩いてみようによる遍照寺の縁起
開山の年代は不詳(876年開山とも伝えられる)。本尊の薬師如来像は横浜市指定文化財。念仏百万遍の供養塔や、岡野新田を開拓した岡野家の墓所がある。真言宗。(保土ケ谷区役所資料歴史を歩いてみようより)
遍照寺所蔵の文化財
- 木像薬師如来坐像(横浜市指定有形文化財)
木像薬師如来坐像
この像は、量感に富み、目鼻立ちの整った面部は張りが強く、運慶の作風を示していますが、面長の顔だちや左肩に大きな折返しをつくった着衣の形式に宋元風の影響も認められます。
市内に伝わる当代の彫刻の中では屈指の佳作で、遍照寺の本尊です。(横浜市教育委員会掲示より)
遍照寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿」