森浅間神社|横浜市磯子区森の神社

猫の足あとによる横浜市寺社案内

森浅間神社|森三村の鎮守

森浅間神社の概要

森浅間神社は、横浜市磯子区森にある神社です。森浅間神社の創建年代に関しては、幸蔵坊長慶比丘が権現堂(亀谷山権現堂福禅寺)を開山した建久8年(1197)を創建とする説と、守邦親王が長円を伴って森村に移り薬師如来像を本地仏として我砂羅山に安置した建武2年(1335)を創建とする説があるといいます。森三村(森公田村・森雑色村・森中原村)の鎮守社として崇敬され、明治6年には村社に列格、明治41年には無格社12社を下宮に合祀したといいます。

森浅間神社
森浅間神社の概要
社号 浅間神社
祭神 木花開耶姫命、源頼朝公、素戔嗚尊、天照大神、稲倉魂命、火産霊命、国常立神
相殿 -
境内社 八幡社、下浅間神社、清瀧社、御嶽社
住所 横浜市磯子区森2-16-7
祭日 例大祭8月15日
備考 -



森浅間神社の由緒

森浅間神社の創建年代に関しては、幸蔵坊長慶比丘が権現堂(亀谷山権現堂福禅寺)を開山した建久8年(1197)を創建とする説と、守邦親王が長円を伴って森村に移り薬師如来像を本地仏として我砂羅山に安置した建武2年(1335)を創建とする説があるといいます。森三村(森公田村・森雑色村・森中原村)の鎮守社として崇敬され、明治6年には村社に列格、明治41年には無格社12社を下宮に合祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による森浅間神社の由緒

(森公田村)
淺間社
除地、五畝歩、村の北の方山上にあり、社二間に二間半、我羅山の額を掛く、森三村の鎮守なり、松本村修験権現堂の持、故に本地薬師像は常に権現堂に安す、相傳ふ此の本地の金像は聖徳太子の御作にして、坐像長三寸七分守邦親王の守護佛なり、建武年中親王當社を造立して安置せられしと云、建武は親王薨御の後なれば年代誤あるべし、又寺傳に其後房州里見氏此邊亂妨の時、堂宇以下焼失せしと云、本社より北の方一丁餘を下りて石小祠あり、下淺間と號す、前に御手洗池と號して細流あり、此淺間山は海濱に張出たる高山にて眺望開け上總の嶂巒天際に連て波濤の如し、右に當ては冨ヶ岡の鼻張出し、夫より二里餘を隔て本牧の出崎突出し、又遥に富ヶ岡の先に張出したるは、相州三浦郡觀音寺走水の出崎にして、この山の眺望殊に美なり、圖右に載す。
-
天照太神宮
除地、十五歩、村の西南の方にあり、九尺に六尺、元禄十年造立の棟札あり、神體は石像長一尺一寸。
-
神明社
除地、二畝二十歩、村野西北にあり、社二間に二間半、明暦二年の棟札あり、神體は立像長五寸。
-
牛頭天王社
除地、六歩、村の北にあり、社は二間に一間半、貞享二年の造立なり。
-
稲荷社二宇
一は除地、十二歩、本社石にて拝殿一仇に一間半、神體は立像長四寸七分、貞享二年造立の棟札を納む、一は除地、六歩、五尺に三尺の社なり、兩社皆村の北にあり。
-
三宝荒神社
除地、十八歩、二間に一間半、村の南の方にあり、貞享二年造立の棟札あり、神體立像長一尺三寸。
-
御嶽社
除地、十五歩、社六尺に五尺。
-
荒神社
年貢地、東北の方にあり、六尺に七尺、以上の數社皆松本村修験権現堂の持。(新編武蔵風土記稿より)

神奈川県神社誌による森浅間神社の由緒

鎌倉将軍守邦親王が護持の薬師像を本地仏として建立されたと伝え、古くは蔵王権現とも称した。字古浜の山上に在って我砂羅山と称し、古来航海安全を翼って参詣する者多く、森三ヶ村の総鎮守であった。明治六年村社に列し、同四十一年十月村内の無格社大神宮、御嶽大神、大神宮、八雲神社、稲荷社、八雲社、荒神社、白幡明神、荒神社、稲荷社の一〇社を合祀し、大正二年神饌幣帛料供進社に指定された。(神奈川県神社誌より)


境内掲示による森浅間神社の由緒

森浅間神社の古は相州鎌倉扇ヶ谷に在り亀谷山権現堂福禅寺と号し建久八年己六月(一一九七年)権現堂開山幸蔵坊長慶比丘(姓藤原)右大将源頼朝卿の請に因り不動明王を奉じ天下泰平を祈る。当時鎌倉より北郷上野村峯天矢部野笹下を通じ對岸の上総下総方面への海路及び戦略上の要所である武州森村に幕府は陣屋を作るに当り当地我沙羅山山頂に霊峰富士より木花咲那姫命の分霊をうけ堂を建立した。
長慶以降権現堂福禅寺の法灯を継ぐ歴代住職はこの地に赴き各種祈願をなしたと言う。これが浅間神社の起りなり。鎌倉幕府最後の将軍守邦親王治世嘉暦三年(一三二八年)権現堂六代権僧都法印長円親王の御祈祷所として守本尊薬師仏像を賜り護持す。元弘三年(一三三三年)鎌倉に戦乱ありしときこの薬師仏像を奉じ親王は長円を伴い鎌倉を脱し森村に移り建武二年(一三三五年)五月二八日森浅間神社の本地仏として安置す。現在当社の御神体なり。この時を持って森浅間神社の創設とする説もあり
長恵の時鎌倉を退転し森村に居住更に文禄年中(一五九二年〜一五九六年)十九代長観の時松本の里に移りし後も代々修験道職を持って当社に奉じ明治維新後は松本姓を名乗り神官職を護持し現在に至る。(境内掲示より)

境内掲示による森浅間神社(下宮)の由緒

武蔵国久良岐郡屏風ヶ浦村森には、古い昔およそ一千二百年前の頃より「浅間神社・下浅間神社」がありました。村人たちは、崇神の念が厚く、江戸時代になると村内各所に多くの社が建立されました。
神明宮(天照大神)森五丁目五-六三
牛頭明神(素盞嗚尊)森二丁目一七
神明大神宮(天照大神)森二丁目四三一-一
稲荷神社(稲倉魂命)森二丁目一一-一二
荒神社(火産霊命)森五丁目十-四
御嶽宮(国常立命)森五丁目四-三
稲荷神社(稲倉魂命)森二丁目一八-四
荒神宮(火産霊命)森二丁目一三-一九
白幡大明神(源頼朝公)森三丁目七-三三
神明宮(天照大神)汐見台交番附近
子大明神(大国主命)屏風ヶ浦小北東下
右の十二の神社は、明治四十一年十月に浅間神社に合祀されました。
現在の浅間神社下宮の社は、神明大神宮の建物を移築再建したもので江戸時代に建築されたものと思われます。
境内にある左右一対の狛犬は、明治二十六年六月森村の有志が村人の安泰を祈願して建造したものであります。(境内掲示より)

森浅間神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿