杉田八幡宮|源頼義・義家父子が奥州征伐後に創建、久良岐郡の総社
杉田八幡宮の概要
杉田八幡宮は、横浜市磯子区杉田にある神社です。杉田八幡宮は、天喜5年(1057)源頼義・義家父子が奥州征伐のために下向、康平6年(1063)に鶴岡八幡宮と当社を創建したといいます。建久3年(1192)には源頼朝より社領を与えられ久良岐郡の総社となったといいます。江戸期には杉田村の鎮守として崇敬され、明治6年には村社、大正十一年五月神饌幣帛料供進神社に指定されたといいます。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別命 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷社 |
住所 | 横浜市磯子区杉田5-2-1 |
祭日 | 例大祭8月25日 |
備考 | - |
杉田八幡宮の由緒
杉田八幡宮は、天喜5年(1057)源頼義・義家父子が奥州征伐のために下向、康平6年(1063)に鶴岡八幡宮と当社を創建したといいます。建久3年(1192)には源頼朝より社領を与えられ久良岐郡の総社となったといいます。江戸期には杉田村の鎮守として崇敬され、明治6年には村社に列格、大正十一年五月神饌幣帛料供進神社に指定されたといいます。
新編武蔵風土記稿による杉田八幡宮の由緒
(杉田村)
八幡社
除地、一町四方、小名宮原にあり、村の鎮守なり、石階數級の上に石の鳥居を立、本社一間四方、上屋五間に三間、東向、神體坐像長八寸五分許、法體の姿にて右手に軍扇を持つ、勧請の年代詳ならず、間宮某納めたる像と云、例祭六月十五日、九月廿五日、社後の山上より眼下に梅林を臨み、花時其景尤美なり。
末社稲荷社。本社の右にあり、地頭稲葉氏の靈を祀るにやと云。
別當妙観寺。本社に向て右にあり、法華宗、江戸丸山本妙寺末、間宮山と號す、間宮氏開基とのみ云傳ふ、本堂五間に四間、本尊三寶を安す、開山詳ならず。(新編武蔵風土記稿より)
神奈川県神社誌による杉田八幡宮の由緒
天喜五年(一〇五七)源頼義・義家父子は勅を奉じて安倍貞任を討ち、奥州の乱を鎮めて帰倉の後、父子相議して康平六年(一〇六三)八月、石清水八幡宮を武相両国に鎮祭して、源家の武運を祈願した。当社はその一で、義家公の造立と伝える。その後源頼朝公より車両及び久良岐郡惣社の称を賜ったという。延宝二年には時の領主間宮左衛門尉信広が社殿を造営し、永一貫三百文の社領を寄せたが、明治六年村社に列し、大正十一年五月神饌幣帛料供進神社に指定された。(神奈川県神社誌より)
境内掲示による杉田八幡宮の由緒
天喜五年(一〇五七)源賴義公が陸奥守として其の子義家公と勅を奉じて奥州の安倍貞任を討ち宗任を降し山城の国石清水八幡宮を勧請し、賴義は相模国由井郷に鶴岡八幡宮を義家は武蔵国杉田郷に杉田八幡宮を鎮祭し永く源家の武運長久を祈願した。康平六年八月である。
後年建久三年右大将源賴朝公より社領を授けられ久良岐郡の総社と定められたものである。
それより四百八十余年を経て延宝二年甲寅の年に時の領主間宮左衛門尉信廣が社殿を再興し、永一貫三百文の田園及び山林を寄贈し久良岐郡十二ヶ村の総社と定めらる。元文五年九月間宮氏他に移住するに至り当神社も衰退し後明治六年村社に列せられ今日に至る。(境内掲示より)
杉田八幡宮所蔵の文化財
- 杉田八幡神社狛犬一対(横浜市地域有形文化財)
杉田八幡神社狛犬一対
『新編武蔵風土記稿』によれば、八幡社(八幡神社)のとなりに妙観寺があり、社の別当でした。明治初年、神仏分離によって寺は別当職を解かれました。
神社拝殿前に左右一対に置かれている和様狛犬には、元禄五年の銘が背に刻まれています。この狛犬は、背に銘があること、獅子の形をとっていないことなどたいへん珍しいものです。(横浜市教育委員会掲示より)
杉田八幡宮の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿